ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月28日
 福田和也と“魔の思想”―日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝

 いやまあ、僕のように福田和也に対し、あまり高い評価を持っていない人間には、「序」の段と「あとがき」に目を通しただけで、もうその愛と憎しみの満ち具合からして、すでに過大評価ではないかな、というぐらいに、お腹いっぱいであり、たとえば他の人間はフルネームでなければ名字で記されているにもかかわらず、なぜか福田和也だけは「和也」という下の名前での呼びかけであったりするところで、とくに〈和也は、きっと中学にいかなかったのだろう〉〈やはり、和也は中学に行っていない〉と連呼されるあたり(P256)が個人的にはツボに入り、思わず吹き出してしまいもするし、たとえば〈福田和也について、本書を読まれれば、その脳内の構造も、その特殊な臓器のすべても、日本人を“皆殺し”したくてたまらない、その人格の常・異常も、解剖台の上に白日のもとにさらわれているだろうと確信している〉という高らかな宣誓にいたっては、いっそ福田和也という人間が魅力的に見えてしまいもするのだけれども、それというのはつまり僕自身が、ポスト・モダン(本書での表記に従い)の考えに、知らずのうちに毒され、〈思想改造されている〉「無意識のアナーキスト」たる現代日本人のひとりだからなのかもしれない。いやいや、そんな。中川八洋『福田和也と《魔の思想》―日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝』は、その題にあるとおり、福田和也とポスト・モダン的な思想の糾弾を目指しているわけだが、しかし、これがすげかった。中川の筆にかかれば、磯崎新は〈一面の焼野原に精神の空洞と狂気という疾患を得て墓場のごとくなった〉心の持ち主であり、保田與重郎は〈どうやら生死の区別がつかない〉ばかりか〈妄想と現実との区別がつかない精神疾患〉を持っていたのであり、 リオタールは〈人間を「物体」にすぎないと見てメスとナイフで人間を切り刻む欲望と妄想に生きた、“世紀の狂人”〉なのであり、『象徴交換と死』を訳する今村仁司は〈ボードリヤールという魔教を吸飲した信者の“脳死状況”がどんなものかを教えてくれる〉のであり、浅田彰とフーコーは〈「ゲイ」の言葉をやたらに撒きちらせば革命力がうまれると狂信している〉という意味で相似なのであり、そうしてポスト・モダンとは〈近代を価値として断じて認めず、破壊する執念を正当化したドグマ〉にすぎず、福田和也こそが〈一九八〇年代の浅田彰を継承するポスト・モダン系のアナーキストの中でも最も大物であり、その才は抜きんでて、他のポスト・モダニストは足下にすら及ばない〉のであり、その念願は、日本国家の死滅、消滅、亡国とすることにあるのだった。おお。このように書くと、陰謀論めいていくる、というか、じっさいにある種の陰謀論に読めなくもないのだが、その原因の多くは、対象を一方的に切り捨てる文章の在り方、あるいは、それを生み出す想像力の働かせ方に負っており、基本的な主張は、出生率が低まると将来の日本人人口が減ちゃうので、安易にジェンダーやフェミニズムが振りかざされるのはいかがなものだろう(もちろん出生率を考えれば、同性愛もよろしくないわけだ)とか、「ゆとり教育」は日本人の学力を低下させるだとか、それは結局のところポスト・モダンのせいなのだとか、の、けっこう素朴なものだといえるし、福田和也のミスリードや事実誤認を指摘するのは、彼に対する批判としては、わりと一般的なものだともいえよう。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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