ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月27日
 ジナス-ZENITH 1 (1)

 記憶を失っている銀髪の青年は、空中に浮かぶ奇妙な物体の夢を視る。そして、その物体を目撃した者たちの、思い出が、死者を六日間だけ蘇らせる。六日目の終わり、青年は、死者たちを土へと還す殺し屋となる。死者を喚んだ者がそれを望もうが望むまいが、死者がそれを望もうが望むまいが、青年がそれを望もうが望むまいが。すべてはジナスの定めに従うかのように、だ。が、しかしジナスとはいったい何なのか、誰も知らず、そうして繰り返される、いくつもの再会と別れの劇を吉田聡は『ジナス』で描いている。

 物語の中心に置かれ、登場人物たちを動かしているのは、「ジナス」という言葉に託された謎(都市伝説)であるのだけれども、作中にある〈ジナスを見た者はジナスに覗き返される〉〈私の心の淵にはどんな魔物が潜んでいるのだろうか……〉という印象的なモノローグが示唆するように、裏を返せば「ジナス」とは、人の心を中心とした、その周辺上に存在しているものであり、つまり『ジナス』というマンガの主題は、あくまでも登場人物たちの「心」のほうにこそ宿っているのだ、といえる。

 人は生きていくために思い出を必要とする。いやまあ、もちろん必要としない人もいるんだろうが、ここで重要なのは、思い出あるいは記憶というものは、ある人間が、生まれた、それから死ぬまでの軌跡たりうる、ということで、たとえば、すでにこの世にいない人間であったとしても、その痕跡が、他者の心に、しっかりと残されている場合、その死者は生きている、といわれることがあるし、だからこそ逆に、ある人間のなかに、他者の記憶が、消えず、残っているとき、その人間は、けっして孤独ではない、といえることもある。言い換えるのであれば、思い出は、思い出す側の人間を生かす、と同時に、思い出される側の人間をも生かす、そのような双方向の可能性を有している。唯物論者にしてみたら、とんだお笑い種であろう。だが、そのような考えが、生きている者にとって、ささやかな支えになりうることもあるのだ。

 この1巻のうち「三の再会」(第3話のこと)では、〈記憶から現れた者〉が、その自分を憶えていてくれる人間がどこの誰なのかわからず、けっきょく邂逅することもなく、六日間が過ぎ去る。しかし、もしかすると〈思い出してくれた人〉の見当はつきながらも、あえて会いに行かなかったのではないか。そういうふうにも読める。とすれば、なぜ会いに行かなかったのか。

 思い出す、というのは、いうなれば認識の方法である。最後に明かされるように、「三の再会」のエピソード内においては、励まされ方のひとつのかたちとなっており、すくなくともそこでは、蘇り、肉体を持った死者との交渉は必要とされていない。そうして念願の叶わずにあることが、翻って、その生者にとり〈記憶から現れた者〉を、尊い存在に格上げしているのだ。それに比べると死者の〈思い出してくれた人〉への執着は、いかにも弱い、むしろ皆無に等しいのだけれども、〈思い出してくれた人〉という言葉に含まれたニュアンスに現れているとおり、そのことを無下に思っているわけでもなく、だからこそ〈記憶から現れた者〉は、わざわざ不必要に蘇らされてしまったことに対して、〈思い出してくれた人〉にではなく、空の、おそらくは「ジナス」に向かい〈くそったれ〉という悪態をつくわけである。

 そのような、生者の願いだからといって、むやみやたらと死者の蘇ることが、必ずしも幸福とは限らない、というテーゼは、じつはすべてのエピソードに通底しており、たとえば「五の再会」における、銀髪の男の〈さよならはすんだんだぞ……〉という涙と〈良い思い出はいつも人間を強くしてくれる そうじゃないのか?〉という微かな笑みが、こちらに寄越す感動もまた、そのことの反響をともなっている。

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』9巻について→こちら
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』8巻について→こちら

 『湘南グラフィティ』→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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