ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月24日
 ブラバン

 読み手である僕が、お気に入りの登場人物を挙げるとすれば、用賀大介と辻吉兵のふたりの先輩、彼らは25年前の過去も25年後の現在も変わらず、かっこうよい。すくなくとも語り手である「僕」の目を通したとき、こちらにはそう見えてくる。津原泰水の『ブラバン』は、その題名にあるとおり、とある高校の吹奏楽部を主役にして成り立っている。巻頭に、30名を越える雑多な登場人物が紹介されているため、読みはじめる前は、同作者の長篇でいうと、『妖都』や『少年トレチア』のような、複数人の視点をスイッチするスタイルが、青春小説のかたちへ流用され書かれたものを想像していたのだけれど、違った。視点は、あくまでも「僕」という一人称に固定されている。その「僕」が、00年代の現在、つまり40代に入った今と、80年代の過去、つまり彼の高校時代とを、パラレルに並べてゆくことで、物語は進む。〈ここにあるのはあくまで、やがて僕らにとってブラバンといえばそれを指すようになる凸凹楽団の物語であって、僕の自伝ではない。やることなすこと悉く失敗してきた人間の自伝なんか、誰が読みたいものか〉というわけだが、しかし、その記述のうちで、的確に峻別され、構成された、語られることと語られぬことのあいだに、「僕」の感情は、しっかりと宿らされている。楽隊における「僕」のパートは、〈管楽器と打楽器のアンサンブルたる吹奏楽〉に引っ張り込まれ、地味ながらも低音部を支える唯一の弦楽器、コントラバス(弦バス)であり、彼には、そうした全体を俯瞰する立ち位置をそのまま、人間関係における自分の役割に課しているところがある。たとえば、ある場面で「俺が知らんうちに終わってしもうて、それをあとから聞かされたとするじゃんか。ほしたら、はあそれが存在せんもんじゃいうのを俺はよう忘れる。あ、終わってしもうとんじゃったいうて気がついちゃ、なんべんもがっかりせんといけん。ほいじゃけえ自分の目で見届けて、これが終わりじゃいうて頭に焼き付けとく必要があるんじゃ」と訛りながら、自身が言うように、だ。大勢いる登場人物ひとりひとりのチャームは、そうやって引っ張り出される。が、そのような資質は、たとえば、べつの場面で他の登場人物から「思うとることを口にださんけえよ。相手が見てほしい部分じゃなしに見てほしゅうない部分をさきに見つけて、しかも黙ったままでおるけえよ。それがみな怖いんじゃ」と指摘され、相対化されることで、他の誰でもない「僕」の、その人生へと回収されるのである。そうして彼が口にする〈なんだかんだで上の世界を信じ〉られるぐらい〈日本という国全体が、まだ辛うじて成長期にあった〉80年代初頭の空気は、青春の貴重さを際だたせ、今日における閉塞感との対比が、歳月の重みを伝える。喪われたもの、損なわれたもの、そして残るもの。とにかく、〈バスクラリネットの死を知ったトロンボーンとアルトサクソフォンは、ちょっとしたパニックに陥った〉という書き出しから、最後の一行に至るまで、読ませどころが盛りだくさんで、とてもうつくしく、悲しく、愉しく、「ほいなら泣き笑いもするの」の小説であった。
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
今日本屋に行ったらこの本が平積みされてて
ちょっと気になってました。
僕、中学生の頃ブラバンだったんです。
一応部長をやってました。
10年以上も楽器とは無縁の生活ですが、
やっぱり気になります。
書評は軽く読ませてもらいました。
もしかしたら買って読むかもしれないので…。
Posted by 誠 at 2006年09月25日 23:33
誠さん、コメントいつもありがとうござます。
この小説は、ほんとうに巧く出来ているので、読んで損がないことと思います。ながらくブランクのあった登場人物が、ふたたびベースを手に入れるくだりなどは、けっこうぐっときますよ。
Posted by もりた at 2006年09月26日 18:31
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