ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年03月15日
 オタクの遺伝子

 柱は大きくふたつで、題名にあるとおり「長谷川裕一」と「SFまんが」なわけであるけれども、前半の長谷川と稲葉振一郎の対談おいても、後半の「長谷川裕一」論(試論)においても、『機動戦士ガンダム』に登場するニュータイプの存在に関する箇所に熱が入っている。そして、その熱は、長谷川というよりも、稲葉の側のつよい拘りであるようだ。ニュータイプが持ちうる可能性への語り口は、同じ著者による『ナウシカ読解 ユートピアの臨界』でのナウシカに対するものに近しい。ニュータイプもナウシカも、言ってしまえば、ある種のトリックスターを指している。つまり、具体的には書かれていないが、宮崎駿におけるナウシカと富野由悠季におけるニュータイプはパラレルなのだ、というのが稲葉の念頭にはあるのではないだろうか。トリックスターとは何か。現世と異界を行き来するものである。その構図は、そのまま現実世界と虚構世界あるいはSFへと置き換えられる。稲葉は、ニュータイプの有り様として、『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイの描かれ方は肯定するが、しかし『機動戦士Zガンダム』でのカミーユ・ビダンの描かれ方は否定する、その後の『逆襲のシャア』におけるアムロ・レイに対しても否定的である。どういうことかといえば、『ガンダム』でアムロはニュータイプであることによって戦場から生還する、未来へと繋がってゆく。逆に『Z』のカミーユや『逆襲のシャア』のアムロは、ニュータイプであることによって戦場の亡霊に捕われる、異界に取り込まれてしまうのだ。そのような両義性を持つ力をどのようにして扱うか。それはまた、現実世界が虚構世界に対してどのように作用するか、虚構世界が現実世界に対しどのように作用するか、ということでもある。本書の焦点はやがてそこに当てられてゆく。と、そこまできてようやく、なぜ稲葉が、長谷川裕一を「世界の複数性」を体現しているSFマンガ家として、ここでクローズ・アップしたのか、その意味が見えてくる。つまり稲葉にとって、長谷川の作品群は、〈人工物と虚構で埋め尽くされた〉〈一見不毛の荒野に見える〉オタクの楽園と、その外側とを連携させられるような、ポジティヴかつ創造力を含んだものなのだということである。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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