ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年12月13日
 さよならさよなら、またあした (ウィングス・コミックス)

 生きる。どれだけの悲しみに顔を曇らせても誰かがそばにいてくれたら日は差すことだってありうるんだ。何があろうと自分を諦めない姿に慈しみの降る。

 あらましを述べれば、ほとんどネタを割るのに近くなってしまうのだったが、シギサワカヤの『さよならさよなら、またあした』は、いわゆる難病ものの範疇に入れられる。二十歳までは生きられないだろうと幼い頃に宣告された女子高生と、とある事件のせいで仕方なく田舎の高校に追われた男性教師の、二人の出会いを題材にしたマンガなのである。しかしここがポイントになるのだけれど、作品のエモーションは、ヒロインが二十歳を過ぎても死なず、結婚してからの毎日を生き、生き続け、明日もなお生き長らえようとする懸命な、その強さとともにある。

 基本的には、気の重たくなるようなストーリーではない。ナイーヴであり、センチメンタルであるものの、青年期前後の主観をベースに、にやにやとちぐはぐの入り混じったラブコメが騒々しく、繰り広げられている。あるいはその、騒々しいテンションこそが『さよならさよなら、またあした』という作品に込められた祈りであって希望であろう。

 育と正嗣による主人公カップルのほか、育の親友である会社員の万喜と彼女に好意を寄せる後輩の武田のエピソードをワキに盛り込みながら、回想を経、過去と現在とを場面は行き来する。こうした構成は、まず間違いなく、心の移動のなかに横の広がりを持たせ、時間の概念に縦方向の手応えを与えている。作中人物が各々背負っているドラマは、もしかすればフィクションにありふれているかもしれない。だがそれらの面には確かな起伏が存在していて、先に述べた騒々しさ=光を受けてできた影の部分に、命と見られるのに相応しい触感が備わっているのである。言い換えるなら、他人との関係や経験と変化が膨らみとしてよく描かれているということだ。

 ほのぼのとした日常のシーンが魅力的に映し出されている分、いつかはそれも消えてなくなるのではないかという軋みにこわくなる。他愛もないことの大切さと同時に壊れやすさが、哀楽のグラデーションを濃くしていき、漂うポエジーをやさしくもせつなくもさせる。

 ああ、かくも運命は残酷だ。現実は非情である。でも一人ぼっちじゃないんだと。君を寂しくさせない誰かが必ずやどこかにいるのだと信じて欲しい。たどたどしくてささやかなコミュニケーションにあてられたページは、諦めを前に選ばれた抗いをあらわしているのだと思う。

 少数ではない人たちが日々を無駄に過ごし、後悔しては簡単に忘れ去っていく。結局のところ、我々が生きられているのはただの幸運にすぎないのかもしれない。しかしその幸運ですら、いとも容易く捨てられる。失われたら取り戻せないものもある。当たり前のことにさえ、目隠し。豊かな世界を台無しにしてしまえる。もちろん、それを浪費という。

 常に死を間近に受け止めてきた育が、ストーリーを通じて教えているのは、決して自分を諦めず、他愛のなさを豊かに生きる方法にほかならない。あるいは彼女の意識と強さがそれを実現させている。もう一度いうが、『さよならさよなら、またあした』は大変賑やかな作品である。端的に死別をモチーフにしているにもかかわらず。騒々しい。なぜか。誰かと誰かが何かを分かち合う。このことの価値をストレスとは反対の角度から掘り下げていっているためだ。

 しかし最終話のラスト、見開きのページにそこまでのテンションを裏切るかのようなカットがついに描かれる。突然の痛ましさに胸を衝かれても不思議ではないのだった。が、パセティックである以上に鮮烈な輝きを覗かせているのはどうしてだろう。あきらかに作者は、エンディングの印象に悲しみの一文字を残しながら、ヒロインの逞しい表情や言葉を介することで、悲愴と悲壮の意味を入れ替えている。生きることの有り難さを克明に浮かび上がらせている。

 後半の展開に震災後の影響があるのかどうかは知らない。けれども、1999年からの十数年を〈世界が滅びなくてよかった / あなたに会えてよかった / …目先の小さな「よかった」で / 私は十分泣きそうに幸せだった〉風景として切り取った『さよならさよなら、またあした』の結末は、ちょうどこの瞬間に希有な感動をもたらしているのである。

・その他シギサワカヤに関する文章
 『九月病』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
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