ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月17日
 暴力的な現在

 井口時男の『暴力的な現在』は、あまり長すぎない批評の類を集めたものであり、表題になっている「暴力的な現在」もそのうちのひとつ、おもに90年代以降に登場した男性作家たちについて論じられていて、僕はそれを、初出の段階(『群像』06年4月号)で目を通していたはずなのだが、ここであらためて読むまで、ほとんど記憶に残っていなかったのは、正直なところ、書かれていることに刺激を受けることもなく、感心するところもなかったからなのだった。たとえば井口は、中原昌也や阿部和重、舞城王太郎に佐藤友哉などの作品を見、村上龍や村上春樹、島田雅彦を経由しつつ、池田雄一や石川忠司といった、どちらかといえば若手批評家のロジックを参照したうえで、中村文則の優位性を述べてゆく。その中村への評価は、続いての、ほぼ同時期に発表された「暴力の記憶」にも共通しており、井口によれば〈阿部和重、中原昌也、舞城王太郎、佐藤友哉といった書き手たちが、アイロニーや紋切り型やサブカルチャー性によって「文学」から距離を置こうとしているのに対して、次のように書く中村文則は、一貫して暴力を主題にしながらも、正面切って「文学」であろうとする姿勢で際だっている。(略)つまり中村は、小説を書くことによって現実へ応答し、同時に、かつて読んだ文学にも応答しようとしているのだ。文学に対しても現実に対しても応答=責任を引き受けようとすること。現在の文学の風景のなかで中村文則を際だたせているのは、ほとんど無防備にもみえるこの倫理的な姿勢にほかならない〉ということになるらしいのだけれども、そうした言葉に首肯しづらいのは、たんに僕の中村に対する評価が高くない、という事実以前に、若い作家の作品から、とりわけ暴力のみをピックアップしてくる、その、もちろん批評につけられた名からもうかがえる指向性というのはつまり、暴力を暴力だと指摘するだけで倫理が倫理として規定されてしまうことと、相容れられないからである。他の批評家(柄谷行人や加藤典洋など)を意識した語彙の繰り方は、いっけん複雑なことをいっているように思えるが、97年の酒鬼薔薇聖斗事件をベースに組み立てられたロジックは、それぞれの作品に宿る主題を、欲望の前景という一面性へ単純化するだけの、それこそが書き手にとって都合のいい解釈の在り方、暴力的な手つきに他ならない。そのことは、「なぜ人を殺してはいけないの?」という、ここに収録された98年時のアンケートにおける、〈この抽象的かつ一般的な形式の質問文に、「私は」という主語を挿入させることから始めるだろう。次に私は、「なぜ私は人を殺してはいけないの?」という裏返しの問いが息を潜めていることに気づかせるべく試みるだろう〉といった回答の、中身の空疎さはともあれレトリックだけは立派に心がけようとしている、言い回しにも感じられる。ところで、いっつも疑問に思うのだが「なぜ人を殺してはいけないの?」というところの「人を殺してはいけない」という禁止は、いったい誰が発した(発している)ものなのか。問う側が示してくれず、どうして納得できないのかが前提にないかぎりは、その禁止者に直接訊いてみな、以外に答えようがないだろうに。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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