ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月14日
 『金沢からの手紙―ウラ日本的社会時評』は、『文學界』に連載されていた「実践的思考序説」を1冊にしたものであり、じつは僕が、仲正昌樹のものを読むようになったきっかけがそれであったので、収められているほとんどには、すでに1回は目を通しているのだけれども、こうしてまとめてみると、やはり前半よりも後半のほうが、ぐっとエモーショナルな書き方になっており、エンターテイメントとしてすぐれている。エンターテイメントとしてすぐれているなどというと、失礼なように思えるかもしれないが、いやそうではなくて、「序にかえて」のなかでいわれている〈とにかく自分の思っていることを文章にして発表してみよう〉、そのようなパフォーマンスがうまくいったことの成果なのである。とくに、ネット書評家に対する批判である「レディ・メイドの「哲学」?」あたりは、同様の言い分は、仲正の、他の文章でも見受けられるのだけれども、しかし一篇のエッセイとして完結している分だけ、完成度が高い。ふつう書かれていることと書き手の距離が近くなれば、その結論はせこくなってしまいがちなものだが、いやたしかにせこく見えなくもないのだが、けっして自己弁護に陥っておらず、一般的に「哲学する」ことの陥穽を突いている。反対に、冷静な考察として興味をくすぐられるのは、『電車男』を叩き台に、恋愛が表現され、共感されることの矛盾を指摘した「「プライベート」を書き込む」になる。仲正は、シュレーゲルの実験的な小説から〈我々が“純愛”だと思っているものが、実は、様々な主体によるその場その場の断片的な思いつきとか、ステレオタイプ化した“愛情”表現を適当にコラージュして、それらしく作り上げた不純物にすぎないことが構造的によく見えてくる〉という考察を得、〈本当に他人に了解できないほど“純粋”だったら、「文学作品」にすることはおろか、「恋愛」という言葉で捉えることさえ不可能なはずだ〉と述べている。仲正は〈この世界に「純愛」なるものがあろうとなかろうと“本当のところ”どうでもいい〉と思っているらしいが、しかし、ここで見抜かれているものは、要するにあの、恋愛(または欲望)とは他者(または第三者)の欲望を欲望することである、といった図式に近しいのではないか、という気がしないでもないので、このへんの突っこんだところをもうすこし読んでみたい。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『ラディカリズムの果てに』について→こちら
 『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』について→こちら
 『松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)』について→こちら
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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