ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年11月19日
 ブルーイッシュ 1 (プリンセスコミックス)

 孤独は決して一人で生きて一人で死ぬためのレッスンなんかじゃない。と信じたい。梅田阿比の新作は、またもや、家族、あるいは、繋がり、の物語を描くかのよう。この1巻が出たばかりの『ブルーイッシュ』で、少年マンガから少女マンガへ活動の場を移した作者だけれど、特殊な条件を背負わされた人間が苦しみ、他の誰かと触れ合い、あまりにもささやかな幸福に許されていく、という本質的なアプローチは何も変わっていない。ともあれナイーヴであることが、ストーリーを苛酷にし、反面、線に淡さをもたらす。その筆跡が、控えめだが、しかし独特な叙情を為しえているのである。

 主人公は、両親を喪い、一軒家でひっそり息を潜めるように暮らす三兄妹で、彼らが能力の不自由なサイキックであることを世間は知らない。果たして自分たちは求められていない人間なのか。〈俺たちにできることといったら・近所の子供を脅かすことくらいだった・むしろこの厄介な能力のせいで・俺たちは学校でもダメダメだった・俺たちはできそこないでポンコツで・まったく進歩がない・この役に立たない能力が・毎日・呪いのように青い影になって俺たちの邪魔をするんだ〉

 それでも誰かのためになりたい。妹、知那の願いが、卑屈な兄たち、亜生と綸の心を動かした日、三人は青い影の外に足を踏み出しはじめる。

 通りすがり、困った目に遭った人々を、亜生、綸、知那が協力し、助けあげるその行為に彼ら自身もまた助けられる。こうしたパターンが各エピソードの骨格になっているのだったが、潜在的にサイキックはネガティヴなもの、当人たちにとっては足かせ、あくまでも負担として認識されている点に注意しておきたい。確かに彼らはその能力なくしては世間と関われないのだけれど、そもそもその能力が彼らと世間を隔てていたのであって、必ずしも欲されていたわけではない。彼らの善意は、無償であるというより、損失の補填に近しいのである。

 彼らの負担はサイキックであることばかりではない。血縁上、実際の兄妹ではない。三人は別々の児童養護施設から引き取られてきた義理の関係でしかなく、無論、亡くなった父母とも真の親子ではない。この意味で、文字どおりの孤児だといえてしまう。本来なら持ちえるものを持っていない。つまりはあらかじめマイナスの重みを抱えさせられているのだ。

 皆と同じになれない。居場所がない。当然、それは罪ではない。望んだのでもない。にもかかわらず、まるで罰みたいに孤独を寄越してくる。辻褄が合わないではないか。これを不幸とし、困難としたとき、その不幸に屈しないこと、困難に負けず、乗り越えることこそが、おそらく、希望の手がかりとなりうる。結局のところ、マイナスは裏返らないかぎりプラスになれないのだし、負担は軽くならない。作中のモノローグ(ナレーション)を主に担当しているのは、次男の綸だが、最初は知那の前向きな提言に批判的だったはずの彼が、次第に感化され、サイキックのポジティヴな使い途を探すうち、不幸や困難の先に希望を信じられるようになっているのは、その言葉の変化に明らかだろう。

 ああ、〈この力を誰がなんのために・俺たちに与えたんだろう・けっして正しくはなく・未熟で・中途半端な・同情と救いの杖〉であるようなサイキックを前に、主人公たちはもがきながら、希望の糸口を見つけ出そうとする。

 では、『ブルーイッシュ』において希望とは何を指すのか。家族、あるいは、繋がり、の別名だと解釈されて構わないと思う。十分な未来も幸福な過去も、まず間違いなく、それらのなかに存在していた。それらに含まれていたことは、いくつかの印象的な場面によって暗に示されている。

 だが、両親の喪失とともにそれらもまた損なわれてしまった。損なわれてしまったという事実から、亜生と綸、知那の三人は物語をはじめなければならなかった。ここに悲哀の色合いが生じている。確かに、必ずや希望はある、の道しるべを徒手空拳で獲得していく主人公たちの絆にも、家族、あるいは、繋がり、のイメージは託されており、そうであるがゆえの感動が、あたたかな気分を膨らませる。一方で、彼らはあまりにも損なわれてしまっている。この動かしがたい前提が、せつない気分を不可避にしているのである。かくして、獲得することと喪失すること、天秤にかけられた双方が皿を上下させる結果的なバランスが、『ブルーイッシュ』の叙情、エモーションの正体だろう。1巻の最後、4話目の幕に置かれた綸のモノローグ(ナレーション)に耳を傾けよう。

 そう、〈人は大事なものを・何度も何度も・追悼し・それでも・進んできた生き物だから・いくら失ったって取り返せばいい・いつまでも何度でも〉というエピソードを締め括るのに相応しいそれからはあたたかさとせつなさがたっぷり伝わってくる。

 さらに付け加えるならば、三人の能力が彼ら自身に何らかの犠牲を強いることはある種象徴的で、とりわけ知那の変身、イコール幻覚だ。亜生のテレパスや綸のサイコキネシスが、その発動に肉体の疲労を付随するものであるのに対し、知那の場合、他人に幻覚を見せるのと引き換えに変身した人物の記憶を一部なくしてしまう。自分がよく知っていたはずの人間を忘れてしまうのは寂しい。これを当たり前のこととするなら、忘れたくない人間の存在は絶対に忘れたくない。と考えるのが普通だろう。

 だが、それでも誰かのためになりたい。知那は願う。願いを叶えるべく、変身を繰り返しては決して少なくない犠牲を払っていく。その姿は『幸福な王子』を思わせる。

・その他梅田阿比に関する文章
 『幻仔譚じゃのめ』7巻について→こちら
 『フルセット!』4巻について→こちら
 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
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