ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月08日
 『新潮』10月号掲載。しまった。先月号に載った分が、「ディスコ探偵水曜日」の第三部「解決と「○ん○ん」」のぜんぶではなかったのか。やはりリアルタイムで追うかたちだと先走ることがあるなあ。と思えば、たとえ時評であっても、連載が終了するまでは作品に触れなかった江藤淳の正しさを感じるけれども、小説総体への評価は完結したさいに、あらためて読み直し、述べるとして、とりあえず、これまでどおり掲載時に受けた印象のみを書き連ねていきます。さて。舞城王太郎「解決と「○ん○ん」」の〈第二回〉、2パート目から5パート目までである。数多くの名探偵が一同に介しながらも、未だ真相に辿り着くことのできないパインハウスの惨劇に、中途半端な立ち位置でコミットし続けるディスコは、新しく発見された事実に対し〈待て待て。また俺は新しく文脈を読み込もうとしているが、それは読むべき文脈か?そもそもそこに文脈はあるのか?この世にランダムに起っている出来事を俺はまたこじつけようとしてないか?〉〈余計な文脈を読むな、と俺は自分の心に刻印しなくてはならない〉と思う。この〈余計な文脈を読むな〉といった言葉は、作品の外部にいる読み手に対しても、まるでひとつの教唆となっている。たとえば、今回の分に限っただけでも、スター・システムよろしく同作者の『阿修羅ガール』で占い師役をやった桜月淡雪が登場し、占い師が探偵役であった島田荘司『占星術師殺人事件』への言及があれば、別の文脈、それこそ作品のうちにメタ・レベルを想起させる回路を、思わず読み込んでしまいそうになるわけだが、しかし、そういった行為の正当性を疑う言葉としても〈余計な文脈を読むな〉という指示は機能しているように感じられる。とはいえ、それをどこまで信用していいか、は、またべつの話で、なぜならば、その、ミスリードへの誘いと拒絶の反復運動自体が、ディスコによる《梢》の奪還を、複雑な構造の物語におけるシンプルな本筋へと、キープし続けているからである。また、今回気づかされたのは、この「ディスコ探偵水曜日」にあっては、ほとんどの登場人物が、ひとつの肉体に、ふたつ以上の名前ないし精神を持たされていることだ。要するに、彼らは、あらかじめ複数の文脈を生きるものとして、小説のなかに生きている。そこからはもしかすると、いわゆるキャラクターの問題を取り出すことが可能であるかもしれない。『探偵小説と記号的人物(キャラ/キャラクター)――ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』のなかで、笠井潔は、キャラクターの問題について〈近代的な「性格、人格」としてのキャラクターの急速な空洞化と、「文字、記号」としてのキャラクターの奇妙な復活現象について思考する際、トラウマ、解離、多重人格などの主題は有力な補助線となるに違いない〉と述べている。福嶋亮太は『文学界』10月号の「新人小説合評」で、「ディスコ探偵水曜日」に関して、〈この小説はいわば「死語」たちが繰り広げる実験的祝祭なのだ。とすれば、舞城はそんな「不安定な死語による計算モデル」の発明を試みているのではないか?〉といっているが、いやそうではなくて、僕は、ここで繰り広げられているのは、キャラクターという複数回生きられる(または不死の)命を、あえて残酷に殺すことで、ただ一回性の生のみを登場人物に付与しようとする、そういう復活の劇なのではないか、と推測しておきたい。

・「ディスコ探偵水曜日」
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(06年)
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