ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年09月02日
 考える人

 ここで紹介されている「考える人」たちのうちで、恥ずかしながら、これまでに文章を読んだことのなかった武田百合子のものを購入して来て、読む。といった具合に気持ちを促されてしまったことを、あらかじめ書いておくべきなんだろうな、と思ったので、そのように書いたわけだが、つまりはそれぐらい、この、坪内祐三の視線により捉まえられている「考える人」たちときたら、すくなくとも僕にとっては、ひじょうに魅力的であるというふうに感じられたということなのだった。坪内の新刊『考える人』は、雑誌『考える人』の創刊号から16回に渡り行われた「考える人」という連載を一冊にまとめたもので、本文から引けば〈この「考える人」は単なる作家論や人物論ではありません。「考える人」としてのその人を考える論考です〉というねらいになっており、初回に小林秀雄を取り上げ、最終回が福田恆存で、そのあいだには田中小実昌や植草甚一など、坪内の嗜好を考えると、じつに「らしい」といえる面々が並んでいる。「らしい」といえば、それらはすべて、すでに故人になっているにもかかわらず、その考え、考え方、考える姿勢は、現在もまだ生きてある、と考える坪内の手つきも、じつに「らしい」ものだといえる。要するに、今まで坪内が発表したいくつかの論考と同様に、書き手が生きた時間、書かれた文章のなかに流れる時間、そして読み手である(あった)坪内の生きている時間とを並列することで、そこに存在している言葉そのものの立体的な拡がり、アクチュアリティを、すくい取ろうとしているのだ。そうした試みは、しかし〈私は、須賀敦子の良い読者ではありません。食わず嫌いならぬ読まず嫌いである〉といわれている須賀敦子の項では、やはり、あまりうまくいっていないように思える。そこには、坪内の読書体験と須賀の文章からの引用とのあいだに、密接な繋がりが見受けられない。あるいは乖離してしまっている。つまり、中野重吉の項で触れられている「当面性」がゼロに近いほど欠け、坪内の読みは、森有正の項で「体験」と「経験」は異なり〈「経験」とは深化させるもの、すなわち連続的なものであって、再現させるものではないはずです〉といわれているところにまではいっていないのである。逆に、〈とにかく、その文章に触れるのが、とても楽しくて仕方がないのです。楽しみながら、しかも、しばしば、ひやっとさせられます。きわめて本質的なことが語られているので〉という武田百合子の項に見られる無邪気な感想からは、坪内ならではの、それこそ唐木順三の箇所で押えられている「型」または色川武大の箇所でいわれている「フォーム」みたいなものが備わっているのではないか、と感じられ、だから気持ちを促されたのであろう、いま、その著書を買い求め、読みはじめたことは、そういえば、いちばん最初に書いた。

・その他坪内祐三の著作に関しての文章
 『同時代も歴史である 一九七九年問題』について→こちら
 『古本的』について→こちら
 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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