ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月31日
 「性愛」格差論―萌えとモテの間で

 下流だとかモテないだとか言わないで、田舎独身貴族と呼んで欲しいものだな(ひどい曲解だ)、というわけで、本題にはあまり関心がないにもかかわらず、この斎藤環と酒井順子の対談新書『「性愛」格差論――萌えとモテの間で』に目を通したのは、3章目の「「ヤンキー」――語られざる一大文化」の項が気になったからなのだが、他の「負け犬」や「おたく」「腐女子」の項と同様に、いかにも適当な考察(それを人は印象論という)でしかなく、それこそ「語られざる一大文化」をちらっとでも語ったら価値があるとでも? といった程度の浅はかなものであったので、まあ、ガッカリとさせられたりもするのだけれども、それでも注目したいのは、斎藤や酒井が、改心したヤンキーについて語るあたりで、そのヤンキーの改心については、ここで、以前はヤンキー的であったと指摘されているビートたけしが、過去のいくつかのインタビューにおいて、たしか弟子(たけし軍団)に元ヤンキーの人がいることを踏まえ、そうした変容の条件について語ったりしている事実からわかるとおり、ヤンキーの転向ごときを特化する発想自体が、すでにヤンキー的なんだよね、とさえいえる。つまりは酒井の〈改心したヤンキーは、穢れのない人に見えますね〉といった錯覚こそが、斎藤のいう「内なるヤンキー性」に関わる問題であろう。ところで斎藤は、以前より、ナンシー関の、日本人の本質はヤンキーとファンシー云々といった説を引いたうえで、「オタク(この新書の表記では、おたく)」と「ヤンキー」「サブカル」の三項を分けて考えるが、それというのは「オタク」と「サブカル」は、「ヤンキー」のサブ・カテゴリーであるがゆえに、ヒエラルキーが上位の「ヤンキー」に対してカウンターたりうるということだったはずで、それを演繹していけば、じつは「ヤンキー」というのは「体育会系」と入れ替え可能だという事実に突き当たりうる、と思うのだが、しかし、やはり「ヤンキー」と「体育会系」というのは似て非なるものに他ならない。おそらく権力の在り方が、微妙に異なっている。そこで僕は、そもそも「ヤンキー」というのは、戦前と戦後あるいは近代以前の封建制と近代以降のデモクラシーの畸形なアイノコ、要するに日米安保条約下の思わぬ副産物であり、そういった意味において、元来アメリカ人を指す語が、高度経済成長を経た80年代に、それこそ国土全体へ、日本的なものとして、無意識のうちに波及したのではないか、という見積もりを立てたいのであった。

 斎藤環『文学の徴候』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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