ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月29日
 だいにっほん、おんたこめいわく史

 「おんたこ」とは、隠蔽された権力の、抽象的な言い換えであり、それは、この国のどの時代においてもつねに、ヒエラルキーの上位にありながら、マイノリティを装うことで、真実にカウンターであるものを吊し上げ、排除し、政治的な正しさのなかに延命をし続けてきた。ここ、『だいにっほん、おんたこめいわく史』に召還(降霊)されているのは、そうした「おたんこ」により、虐げられてきた人びとの種々なる声なわけだが、もちろんその、声のうちのひとつには小説内登場人物としての「笙野頼子」のものもあり、第3章のタイトルに「さて、そういうわけでみたこの学生たちは連行されました! ふん、それにしても。ああ第1章は宗教弾圧第2章は少女虐待まったくっ! なんと言うひどい国にっほんであろうかっ! そもそもこんなひどい国を作っておいて一体作者はどういう意図なんでしょう。でもまあ意図はともかく作者の事情はこんな感じですのでどうか……(ふんまったくこいつはメタしかできんのか、と自分で書きながらまだやるのだ。はいはいここまで第3章のタイトルですよー)。」とあるとおり、記述それ自体が起動させるメタ・レベルまでをも射程に入れた、濃い口のフィクションが、圧倒的な饒舌さでもって展開されている。ところで、近年の笙野頼子の、いくつかの作品に共通する固有名または登場人物たちを指し、それらをいわゆる「キャラクター」という概念に変換できるか、またはその小説を「キャラ読み」することが可能であろうか、といえば、おそらくは、できない。それらはあくまでも声に徹せられており、語りの変形であるがゆえに、いかに批評的であり、どのような運動を持っているのかは、佐藤亜紀が『小説のストラテジー』で詳しく述べているのを参照していただくとして、その一点において、小説以外のジャンルには転送しにくい、たとえば本書書き下ろしの「言語にとって、ブスとはなにか」(あはは)のなかで笙野が、マスコミ(本来的なマス・コミュニケーションの意)のコードとは異なるコードにおける〈書き手と読み手一対一〉のコミュニケーションといっているような、いやそれこそがつまり文学である、と、ここでは断定しないが、しかし、そういったことをすくなからず意識させられる、稀少な表現となっていることだけは、たしかである。

 『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』について→こちら
 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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