ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月29日
 ゆれる

 西川美和の小説『ゆれる』は、同名映画の、監督自身によるノベライズという立場にあるのだが、映画のほうを観る機会に恵まれていない僕は、こちらのノベライゼーションのみに限定して、ここからの内容を書きます。昔から父親との折り合いが悪かった弟、早川猛(たける)は、高校卒業と同時に、東京に出、やがてカメラマンとして成功する。一方、兄の稔は、田舎で、父親の信頼のもと、家業のガソリンスタンドを支えていたが、その穏和な性格のせいで、従業員で幼馴染みの川端智恵子に自分の想いを伝えられず、30代になった今も、まだ独身のままでいる。智恵子には、高校のときに猛と付き合っていた過去があった、そのことを誰も知らないし、彼女の猛への気持ちが未だに消え去っていないことも、誰も知らない。母親の一周忌のため、ひさびさに帰郷した猛が、そこで智恵子と再会したことをきっかけに、早川家をめぐる停滞は、ゆっくりと揺れ、動きはじめる。作中に「藪の中」といった言葉が、おそらくは意識的に用いられているとおり、小説は、芥川龍之介の『藪の中』をおおもとのアイディアとしたかのような、一種の心理劇であるといったふうに読める。とはいえ、章ごとに視点を変えることでつくられてゆく全体の構造は、けっして語りにおける技術的な駆使ではなくて、あくまでも物語進行上の必然、小説内部の時間を進めるうえでの要請であるところが、おおきな相違点であろう。おもな登場人物たちにはそれぞれ、早川に川端、それから岡島洋平といった具合に、どこか水のイメージに関わる名前が付せられているが、それと同程度に、語り手の交代は、表層を彩るものでしかない。が、しかし、そのことがけっして読後感を濁さないのは、基本の筋が、考え抜かれ、しっかりとした着地点へと結びついているからだ。ふたたび『藪の中』との比較を用いれば、ここでは、いったい誰の述べていることに信頼が置けるのか、そのような疑問を挟み込む余地なく、証言者はみな、正直すぎるほどに、ほんとうのことだけを告げている。結果、他人の内面を見渡すことなどできないのだ、といった断念が、前提として浮かび上がり、そこにある不可能性を乗り越えようとすることで、物語は結末へと至る。じっさいに乗り越えられたどうかはともかく、読み手が何かしらかの感銘を覚えるとしたら、良くも悪くも、そのような推移の描かれ方、書き方にではなく、そういった推移そのもの、つまりはプロットに対して、なのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック