ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月26日
 夜をゆく飛行機

 角田光代『夜をゆく飛行機』は、直木賞受賞後初となる長編であるが、なるほど、たしかにこれは、直木賞作家が、じつに丁寧につづった少女小説といった風情である。酒屋を営む両親と四姉妹にまつわる物語なので、少女小説というよりは、むしろ家族小説なのではないか、という向きもあるだろうけれど、やはり家族小説というよりは、少女小説として見たい。とはいえ僕は、家族小説や少女小説とはなにか、といった厳密な定義を知らないし、あくまでも雰囲気で、そう喩えるのだが、しかし、たとえば斎藤美奈子は、金井美恵子の『小春日和』文庫版の解説で、少女小説の型について次のように述べている。〈少女小説とは何か。簡単そうで、これは厄介な問題です〉〈第一に、主人公が健気な少女で、描かれているのも主に女どうしの愛憎であること〉〈第二に、主人公が家庭的な不幸を負っていること〉、しかしながら〈いまに残る翻訳少女小説の共通点は「親と離ればなれになった可哀想な少女の物語」の枠組みを持ちながら、実際には、その枠を大きくこえて「元気な少女が逆境をバネに活躍する物語」になっていることです。好奇心と独立心にとんだ「少年のような」少女を主役にし、女どうしの友情に価値を見出し(ついでにいえば男をちょっと見下し)、しかも最終的には少女の成長と自立を描いている〉のだとすれば、この『夜をゆく飛行機』のなかに編まれた物語もまた、少女小説の型に近しいものだと、十分に、いえる。あくまでも、語り手である17歳の少女=「私」の視点を通じて、読み手は、彼女の周辺に起きた出来事たちと、それから彼女自身の成長と自立とを追体験する、そういうつくりになっているからである。〈ねえ、どう思う?〉と、実在しない(生まれてはこなかった)弟「ぴょうん吉」に話しかける〈私〉の夢想を、アン・シャーリーの現代的なヴァージョンだと捉まえることもできる。もっとも、そういう小説の内部において、角田ならではの「ここではないどこか」をめぐる運動が、しっかり行われていることにも注視しておきたい。ひとつの内面から眺められる「ここ」と「ここではないどこか」の二重性は、現実と空想、現在と過去、じっさいの日常と「私」の姉である寿子が書いたエッセイふうのテクストなどにおける対比に託され、語られ、やがて夜空を渡る飛行機を見つけたときに〈私は飛行機に乗ったことがない。それでもなんだか、乗っている感じ、というのを、不思議なくらい現実感をもって想像することができる (略) 新幹線よりも速く移動しているのに、狭い座席に座っている私には、どこかに向かっている、という気がまったくしないのだ〉といった具合に、合わせられる。

・その他角田光代の作品に関して
 『ドラママチ』について→こちら
 『おやすみ、こわい夢を見ないように』については→こちら
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック