ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月25日
 YATO10.jpg

 この10巻で、第4章「夜刀の神つかい」は、終わる。夕介と菊璃の悲恋に結着がつけられる。そうしてそれは、ひとつの「きみとぼく」にまつわる物語へピリオドが打たれる、ということでもあった。これより先に描かれることとなる最終章「太陽の理」は、つまり、夕介にとって〈それはもうオレと菊璃の愛の物語じゃない〉のであり、〈オレにとってはどうでもよかった筈の外の物語〉に他ならず、それでも、その〈国とか世界とか宇宙の物語〉といった大状況のなかで、「神つかい」として選ばれた彼は、戦いを戦い、死線を生き延びなければならない。なぜならば〈菊璃の愛したこの世界〉を守るために、全人類の命運が彼に託されているからであるのだけれども、〈なんて小さな物語だろう〉〈ここは・・・なんて小さな世界だろう〉といった具合に、夕介の内面には、ただただ空漠が拡がる。ここに示されているのは、いわゆる「きみとぼく」というミニマムな物語にくらべ、マスを左右する、いわば大きな物語は、小さい、といった想念の図式だといえる。また、たとえ菊璃が、人の道を踏み外してしまい、夕介と敵対したとしても、その命があるかぎりは、彼と彼女の物語が続いていたのと同様に、日向夕介が生きている以上、蟆霧(まきり)=ヒカゲにとっての「きみとぼく」の物語は終わってはいない、そのときに、ふたたび彼らが再会することから、これが、人類や国家の一大事よりも、この地上で生きる、ひとりひとりのエモーションに、あくまでも焦点があてられ、進んでいることがわかる。あるいは『エヴェンゲリオン』や『ベルセルク』以降に、サブ・カルチャーが抱えた、自意識の流れさえうかがえる。神のオウムとなり、進化の理を語る砌(みぎり)の言葉は、はたしてそれが、作中における現実なのか、夕介の妄想なのかは不明だが、菊地秀行の諸作品にも通じる、要するに奥瀬サキ流の伝奇科学的な解釈を思わせ、もはや、ほとんど総吸血鬼化し、朝日を愛でることのできなくなった登場人物たちの手により、『夜刀の神つかい』をめぐる物語は、最後の局面へと突入してゆく。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(06年)
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夜刀の神つかい(10)(by奥瀬サキ・志水アキ)
Excerpt: ★★★★☆ 著者:奥瀬サキ・志水アキ 出版社:幻冬社 定価:620円 出版年月:2006年8月 最愛の菊璃との再会・・・ それは夕輔と菊璃、お互いの死力を尽くした戦いのはじまりでもあった。 ..
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