ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月17日
 東京大学「80年代地下文化論」講義

 僕という個人のバックボーンは、完全に90年代に拠っているので、80年代というディケイドへの関心は、とてもとても低い。ゼロではないにしても、100のうち10はない、とはっきり言える。したがって当然のように、その時代を論じたものについても、読むが、しかし、それなりの勉強にはなりました、という以上の感想を持つことはほとんどないのだけれども、この宮沢章夫の、東大での講義をまとめた『東京大学「80年代地下文化論」講義』からは、わかりやすく、さらにそこから一段階踏み込んだ話を聞きたくもなる、そういう声が届いてくる。以前にも書いた気がするが、この時代から、過去を振り返る体で編まれる80年代論というのは、そのころを実体験した世代の、自分語りに終始するパターンが多く、それはつまり、一面的な切り口でもって、10年ならば10年というスパンを取り出し、再構成してみせる作業でしかないのであり、拡がりがなく、だから、その語り手に対して、もしくはその語り手が得意とするジャンルに対しての興味がない場合、退屈な発表会を上回るものとはなっていかないのだけれども、ここでは、宮沢自身が、二項対立の超克を目指しているというのもあり、〈新人類に対する大塚英志の解釈を紹介しつつ、それに対して僕も反論したい部分がある。で、『「おたく」の精神史』を反語的に読む〉といっているように、時々に応じ、大塚の『「おたく」の精神史』で展開された、同じ時代にまつわる、自分とは異なる、べつの見方を参照することで、ある種の相対性を獲得するに至っている。そのため、もしかすると結論といったものは、この本のなかにはないのかもしれないが、論の積み重ねそれ自体が、現代を生きるこちら読み手へ、たんなる情報にとどまらないインプットとなり、響く。じっさいに僕は、宮沢にも、宮沢が属していたシーンにも、最初にもいったとおり80年代そのものへの興味もない、が、これを読みながら、うんうん、と、あちこちで頷くことができたのであった。

 おもしろく読める箇所は、いくつもあり、それらにいちいち触れていったら、キリがないので、あくまでも僕個人に引き寄せて、もっとも重要であると思われたのは、P380のあたりで披露される推論で、宮沢は〈「80年代には埼京線が走ってなかった」ということが、すごく大きな意味としてある〉としたうえで、〈渋谷がよかったのは、東横線が横浜に通じていた〉一方で、埼玉県の人たちは〈池袋で止まっていた〉〈それ以上先まで行こうなんて考えもしなかった〉、だからこそ新宿・渋谷間に〈関東大震災後の若者の文化が形成されていったんだろう〉、しかし〈恵比寿まで埼京線が伸びてしまったがために、途中の街がのきなみ蹂躙されていった。誰に蹂躙されたか。もちろん、埼京線の北のほうの沿線住民です〉といっている。まあ、田舎または郊外の側から、都会へと向かい、郊外化の波がやってきた、ということの言い換えともとれるのだけれども、そうした推論を前に、僕が気にかかるのは、では、その池袋までで止まっていた人たちにとっての80年代とは如何なるものであったか、なのである。じつは、そうした人びとのうちのひとりとしてカウントされるのは、まちがいなく、大塚英志が強くこだわり、それを踏まえ、ここで宮沢が、その〈事件が「おたく」を顕現させてしまった〉と指摘している宮崎勤の存在であるし、たとえば北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で解説した「純粋テレビ」という概念、その成立に関わったとんねるずなども、彼らは埼玉の人間ではないが、東武東上線沿い出身という意味では、同様の文化圏からやってきているといえる。要するに、こうしてさまざまな角度から80年代論が出揃いつつあるなかで、その、郊外における80年代の文化を当事者が深く、振り返り、再検証した言説だけがまだ足りていない、と感じられれば、それがひどく残念なことに気づかされたのだ。

 というか、それはそれとしても。宮崎の事件があった当時の、地方都市におけるオタクへの抑圧は、たぶん地域共同体がまだ(かろうじて)機能していたというのもあるし、もちろんヤンキーや体育会系の勢力が隆盛を極めていたというのもあり、いやほんとうに凄まじいものがあったので、それを誰か言語化してくれないものだろうか、と単純に思うわけである。

 『『資本論』も読む』について→こちら
 『不在』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック