ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月09日
 『群像』9月号掲載。もしも恋愛というのが他者の欲望を欲望することなのであれば、という勿体ぶった言い回しをするまでもなく、第三者の好意的な評価が欲望を後押しすることなどざらにあるのだから、〈私〉は、あの吐き気がするほどに冴えない海野くんのことがまんざらでもないと、嘘でも、もちろん適当でもいいので、友人に述べてさえあげれば、友人と海野くんがくっつくのなんて、わりあい手っ取り早い話だったに違いない。とはいえ、それのできないことが、〈私〉を抑圧する、唯一の、切実さなのだろうから、そのかわりに彼女は〈ねえ、想像してみて〉と言いながら、自分と他人とのあいだに、けっして共感や連帯へと繋がらない、一本の線を引いてゆく。

 生田紗代の『彼女のみる夢』は、たんに若い世代の肥大化した自意識を取り扱った小説なのだろうか。読みながらつねに、そのことが気にかかった。あるいは、読み終えてまずは、そのことを考えた。たしかに小説の内部には、語り手である乃梨子という名の〈私〉以外に、何人もの人間が登場している。そのなかでも、とくに存在感があるのは、学生時代から付き合いのある〈典型的でも類型的でもなく、正しいOL〉の友人、〈彼女はストレスのたまる友人だった。しかしなぜか、私は彼女と仲が良かった〉。それから、この夏に結婚をする予定の姉、〈姉とは仲がいいほうだとは思うが、私は彼女に対して特別な関心はない〉。そして、働きはじめてからも自宅住まいなので毎日のように顔を会わせる母、〈母は決して愚かな人間ではない。ただ、要領が悪いために、得てして愚かに映ることがある。私とは逆だ〉。それら身近にいる同性の三者が、とくに目立って見えるけれども、彼女たちは、一人称の語りにより、それぞれ〈私〉とは対角線上に位置する人物として、肉付けされている。その関係性はあたかも、彼女たちのネガが〈私〉なのであり、〈私〉のネガが彼女たちなのだ、といったふうにも感じられる。

 では、そうした差異となるような、彼女たちが受け入れ、〈私〉が拒んでいるものとは、いったい何なのであろうか。おそらくは、そういう問いかけこそが、この『彼女のみる夢』の核心にあたるものだ。あくまでも僕なりの見方でいうのであれば、それは、時間の流れに沿うようにして自分で自分を生かそうとする意志なのではないか。作中に次のような箇所がある。〈私〉が家族といっしょに朝食をとっている場面である。〈永遠に、こんな朝の風景が続くような錯覚を覚えることがある。十年後も、三十年後も、そらからもっと先も、 (略) 私たち家族は、変わらずにそこにいる。そんな気がする。もちろん、そう遠くない将来、両親は死ぬし、私がこの家を出る日が来るのだろうけど。ただ、両親が死んでも、私だけは地縛霊のように、この家でただ一人暮らしている。そんな気もしていた〉。これは、風景としてある家族の団らんというより、モラトリアムの心情に近しい描写だと思う。モラトリアムというのは、おおよその場合、時間や状況に左右されない状態に身を置くことである。こうした〈私〉の在り方は、終盤に、姉の結婚式を指して〈完璧なまでに幸福な一瞬である、今日この日があるからこそ、あの二人は、きっとこの先何十年と続く、退屈な夫婦生活を送っていけるのだ〉といわれているものと、やはり対照的だといえる。それが、たとえ退屈なものであれ、姉の人生は、まちがいなく未来へと、絶え間なく動き続けているからだ。

 恋愛や結婚のことを〈私〉が考えないのは、もちろん〈誰かといるより一人で何かしているほうが好きな〉性格も含め、彼女が、他者の欲望を欲望しないからに他ならないし、それというのはもしかすると、彼女にとっての他者がどこにも存在しないからなのかもしれないが、しかしそうではなくて、〈私〉の意識のなかで〈ねえ、想像してみてよ〉と言う自分自身が、そもそものはじめからどこにもいない、ただうたかたの夢程度にしか感じられない、ということだってありうる。アパシー。彼女のみる夢。

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「ハビタブル・ゾーン」について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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