ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月08日
 『新潮』9月号掲載。「ディスコ探偵水曜日」の第三部、「解決と「○ん○ん」」である。が、べつの文脈から話をはじめる。同じく『新潮』の9月号に掲載されている福田和也の連載「わが戦前」の第六回では、舞城王太郎が論じられており、福田が舞城のデビュー作『煙か土か食い物』の帯に推薦文を書いた経緯などが語られていて、そのあたりはもしかするとファンのあいだでは周知の事実なのかもしれないけれども、僕はとても興味深く読んだのだが、それはさておき、福田は、その論のなかで、舞城の小説のうちでは〈無力であるということ、無意味な存在であるということの確信が最上の歓喜をもたらす。その無力さは、子供であること、幼児的であることと直接に結びついている〉といっている。〈舞城は削り取られ、寸足らずにされた、塵埃のようなものでしかない人間性を許容し、凡庸で平準的で小児的なカタルシスを賛美している〉として、それを正面から引き受けるところにこそ、舞城の批評性があるのだし、だからその作風が信用できるというのである。なるほど、とは思う。が、しかし、その「凡庸で平準的で小児的なカタルシス」がカタルシスたりうるためには、相応に非凡で荒唐無稽な物語を、小説の内部で駆動させる必要があるのではないか。と、この「解決と「○ん○ん」」を読み、感じる。ここには、たしかに謎解きのロジックやレトリックをめぐって「凡庸で平準的で小児的なカタルシス」が描き込まれているけれども、反面、小説内の時間を動かす、押し進めるような物語が内在されていない。そのために、第一部、第二部ときて、この第三部で、ディスコ水曜日の地獄巡りは、ついに失速してしまったかのような印象を与える。じっさいに、パインハウスの連続殺人がいよいよ解決に近づこうとする段になって、ディスコは、とある登場人物の言葉から〈俺もまた、ここに俺がいる理由を考えすぎて、梢を取り戻すためにはこのパインハウスの事件を解くことが自然と必須に思っていた。俺は水星Cに釘を刺されていたにもかかわらず、《変な文脈》を読み過ぎていたのだ。そうだ。梢の願いはこの事件を解決してってことじゃなかった。《十七歳の梢》はパインハウスに「行ってきて」としか言ってなかったのだ〉との示唆を得る。つまり、パインハウス事件の解決は、ディスコにとっての本筋における解決とはならないのだし、パインハウス事件の真相究明に終始する(が、未だに真相には辿り着いていない)この第三部は、「ディスコ探偵水曜日」という小説の内部にあって、いわば脇道にあたる。大枠の物語には関与していない、ように読める。あるいは、第一部や第二部の登場人物たちのほとんどが、第三部においては進行の外部へと追いやられている、内容に参入してこないのもそのためであろう。だが、いかに脇道であろうとも、小説の内部にあるものが、その小説の輪郭へ影響を与えないということはありうるのだろうか。といえば、それは全体の完結を見ないこの時点では、やはりわかるはずもないので、このすこしばかり退屈な第三部を閉じた僕は、ひとまず次なる第四部の掲載を待つことにするのであった。

・「ディスコ探偵水曜日」
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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