ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年08月05日
 女神の鬼 4 (4)

 すこしばかり前に出た本の話になるが、『嫌オタク流』という対談集のなかで、更科修一郎が、〈今、広島のヤンキーって特攻服を着ちゃいけないらしいんですよ。特攻服を着ているから、かわりになぜか着ぐるみを着てるんです〉〈そんな状態だから、田中宏のヤンキーマンガも現代を舞台にできないんじゃないかなあ、と。今『ヤンマガ』で連載中の新作が一九七九年の話だったんです。時間軸を昔に設定しないと、登場人物がみんな着ぐるみを着ていることになっちゃう〉と言っている。そこでいわれている田中宏の新作とは、もちろん『女神の鬼』のことである。更科の発言は、まあ冗談半分に受け止めるにしても、しかし「現代を舞台にできない」がゆえに、田中が『女神の鬼』における物語内の時間設定を1979年にしたという意見には、承伏しかねる感がある。おそらくは、そうではない。では、どうして田中は、今この時代ではなくて、かつてのその時代を、今この時代に描かなければならなかったのか。

 ところで、田中の初期作品『BADBOYS』の総集編にあたる『月刊BADBOYS』には、毎号巻末に、『BADBOYS』に影響を受けた芸能人のインタビューが掲載されている。これまでのそのおもな顔ぶれが、青春パンクの人だったりお笑い芸人だったりするのが、いまヤンキーの精神がサブ・カルチャーのどこに顕著なのかを示していて興味深いのだけれども、9月号(VOL.15)のその欄に登場したのは、お笑いコンビやるせなすの中村豪という人であった。「やはり高校時代はやんちゃだったのか」といった旨の質問を受け、中村は「いや、僕が高校にあがったころはもう(東京は)チームの時代でしたから」といったようなことを答えている。調べてみると、なるほど、中村は都内出身の75年生まれなのであった。つまりは彼の高校時代というのは、90年代の前半にあたるのだとすれば、たしかに80年代後半から90年代の半ばまで続いた『BADBOYS』の連載期間に符合する。とはいえ、『BADBOYS』には、いわゆるチーマーふうの登場人物は、ほとんど現れない。チーマーふうの格好をした登場人物が物語にコミットしてくるようになるのは、おそらく『BADBOYS』の続編にあたる『グレアー』以降である。

 ここで注意しておきたいのは、『BADBOYS』の舞台が広島であったことだ。中村豪が発言しているように、90年代前半に、東京の不良は、チームの時代であった。そのころ、広島はまだヤンキーの時代であったのかもしれない。いや僕は広島の人ではないので、事実に詳しくないのだけれども、すくなくともそのように推測したばあい、そこで浮かび上がるのは、都会と地方という、あの二項対立の図式であろう。

 やはり75年生まれである更科修一郎が、どこの出身で、はたしてリアルタイムで田中宏のマンガを読んでいたのかどうかは知らないが、先に引いた発言のうちで、更科に欠けているのは、地方都市に生きる者の視点だろう。ネタではなくて、じっさいに広島のヤンキーが特攻服のかわりに着ぐるみを着ているのだとすれば、そこにはそうまでしなければならない切実さがある、と考えるべきである。田中宏が「現代を舞台にできない」という見方は、たんにひとつの風俗情報としてのみ『女神の鬼』を読むような立場からやってきているのであって、そうした見方からすこしずれてみれば、なぜ『女神の鬼』が、今この時代ではなくて、かつてのその時代を描いているのか、「現代を舞台にできない」からというのとはまたべつの理由が浮かび上がってきそうな感じもするのだが、しかし残念ながら僕はといえば、そのことをまだ言語化できないでいるのだけれども、あるいはそれが僕の『女神の鬼』を読む、そのひとつの理由となっていることだけは述べておきたい。

 よけいな前置きが長くなりすぎた。というわけで『女神の鬼』4巻である。主人公であるギッチョが、まだ小学生だったころの話が続く。彼に先行する世代たちの苦悩が、ねじれにねじれ、次第に血なまぐさい抗争へと発展してゆく、その過程が繰り広げられている。彼らはなぜ争い合わなければならないのか、といえば、それはただひとりの「王様」になるためであった。たいていの場合、王になることが目指されるのは、自分の存在を絶対化しようとする、そういう心理において、である。裸の王様が、裸であることを誰も指摘できないのは、それは彼が絶対君主だからに他ならない。同様に、この4巻で、ついに暴走をはじめる少年たちも、それまで虐げられてきた自分を自分で救うために、けっして誰からも否定されない存在としての「王様」へ、その願望を露わにするのである。たとえば、この巻の表紙を飾る雛石は言っている。〈イライラがどーしよーもないけぇ 目の前の物をぶち壊す!! 〉〈怒られたらまたイライラが大きゆーなってどーしよーもなくなる……〉〈片っ端から攻撃するんじゃ……!!〉〈どんなジャマが入ろーが関係ない〉〈攻撃し続けるんじゃ……!!〉〈じゃが攻撃すればするほど知らん大人が次から次にやって来てワシをどーにかしよーとする〉。こうした悪循環は、ともすれば王の絶対性をもって、他者の意見を封殺またはその視線を無効化さえすれば、断ち切ることが可能であるかもしれない。すくなくとも雛石の行動原理は、そのような考えに沿ったものに思える。

 いや、それは何も雛石に限ったことではないだろう。真清や花山たちもまた同種の指向を抱えていることは、たとえばこの4巻のなかでだけでも、真清の、次のような言葉からうかがうことができる。〈ガキの頃からいっつもこーじゃ…小川(保護司)のオヤジが言ぅとーりにいろんなコトやって昔っから必死に抑えよーとしてきたが……自分じゃどうにもならん・・・・ブチ切れるたんびにワシの頭はぶち壊れる〉。他者からの攻撃に曝されたさい、頭のなかにはノイズがあふれ、自身のことがコントロールできなくなる。真清がいう言葉のうちに表れているのは、そうした性質に修正が効くことはないのだという断念だとして、それが裏返しになったところに、自らの存在を「王様」という絶対性へと同化させようとする意志が隠されていることは、広島カープが日本一になろうとする前夜の描写にパラレルで表されている。歓喜に沸く市街地を抜けた場所で、真清たちの背景にそびえ立つのは、さびしい原爆ドームの姿である。

 登場人物たちのあいだには、そうした「王様」への指向性といった部分における相似点がある。面倒くさい言い方になるけれども、「後天的に「先天的にお前は間違えている」と植え付けられた」オブセッションに抗おうとしているという意味で、みな共通の運命を背負っているのである。しかし、絶対者は複数であってはならないために、それを共有することができない。また、その一方で、仲間を鎧として扱う雛石に対して、仲間のためにカッターを突き立てる真清など、彼らのあいだには相違点も存在しており、あるいはそれこそが、ほんとうの意味で、彼らの生き方を分かつものであったかもしれない。

 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック