
北丘蒼太、ついに銀座の名店「富み久」の板長になる。絵の上ではいつまでも若々しく見える主人公だが、物語のレベルではそれだけの道のりを歩んできたということだ。以前にも述べたことがあるとおり、料理マンガにしては珍しく、作内の時間進行を歪めずに、真っ当な成長ロマンを描き出ている点が、『蒼太の包丁』の大きな魅力だろう。他方でたとえば、せきやてつじの『バンビーノ!』などが、ドラマのインパクトを強めよう強めようとするあまり、現実感をワキに追いやってしまっているのに比べて、じっくり地に足の着いたストーリーを編み続けられているのを、特徴の一つに挙げられる。おそらくはその実直さを高く買われるべきだと思うし、実際にすぐれてオーソドックスであることが内容の確かさを裏付けている。再開発の影響を考慮し、親方は「富み久」を暖簾分け、そちらに営業の主を持っていくことを決心する。兄弟子の山村が正式な後継者となって「分富み久」を任された結果、蒼太は板長として本店を守っていくことになるのだった。連載の300回目にあたり、新たな「富み久」の門出を前祝いした「分かれ目の日」は、この30巻に収められている。これまでの積み重ねを結晶したエピソードである。セリフが全くない前半に置かれているのは、何気ない日常の業務に他ならない。事件らしい事件が起こるのでもない。しかし淡々とした風景の中に、複数が交差させる視線を通じて、間近に失われてしまう現在への感傷を事細やかに落とし込む。そうした手法が鮮やかに見えてくるのは、読み手にとってもまた、あの馴染み深い場所が変わらざるをえない成り行きを、強く、惜しませるためであって、すなわち、作内の時間進行を共有させることに成功しているのだ。現在に対する感傷は、誰かに限定されたものではない。誰もが経験しうるものだろう。それをうまくすくい取っているのである。後半において、やっと主人公のセリフが入ってくる。そこで、これがあくまでも蒼太という中心点を持った物語であることが改めて確認される。「富み久」の本店を前に、背筋を伸ばした彼の顔つきは非常に精悍だといえる。成長は人を逞しくする。どんな困難に突き当たろうが、くじけまい。逞しくなっていこうとする姿が、物語をぶれさせないだけのテーマになりえている。
25巻について→こちら
24巻について→こちら
22巻について→こちら
20巻について→こちら
18巻について→こちら
17巻について→こちら
16巻について→こちら
15巻について→こちら
14巻について→こちら
13巻について→こちら
12巻について→こちら
11巻について→こちら
10巻について→こちら
9巻について→こちら
8巻について→こちら
7巻について→こちら
6巻について→こちら