ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年02月27日
 逃亡くそたわけ

 ロード・ムーヴィーのような。一言でいってしまえば、そういう小説である。精神病を患いながらも、なんとか普通の人として生きていた「あたし」は、自殺未遂がきっかけとなって、プリズンと呼ぶのが似つかわしい不自由な病院に入れられてしまう。そうして大学に行けなくなり、恋人も離れていった。「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」。うるさい幻聴が頭のなかを満たしている。なにかに急かされているような感じがする。夏が終わってしまう。21歳の夏に「あたし」は病院からの脱走を試みるのだった。

 おおまかな流れとしては、「あたし」が逃走中に出遭うてんやわんやを追っている。ただ「あたし」はひとりで病院を出たのではない。道連れは、同じ病棟で暮らす、茶髪の元サラリーマン「なごやん」である。「なごやん」は男で、「あたし」は女だ。そうした男女がふたりきりで、ボロい車に乗って、九州中を転々とする。ふつうであるならば、ふたりの間に恋愛感情やら肉体関係が生じても良さそうなものだけれども、従来の絲山秋子作品がそうであるように、ここでもセックス(性交)は行われることはない。けっしてセックス(性差)が無視されているのではなくて、むしろ「あたし」が女であることは執拗に描写されている、だからおそらくはセックス(性)によって「あたし」の生が誤魔化されてしまう、そのことが避けられているのだ、と思う。

 読みようによっては、赤坂真理の『ヴァイブレータ』と似通った内容であるけれども、両者を大きく隔てているものがあって、それは、やはりセックス(性交)への関わりと、そして「ここではないどこか」みたいなものの捉え方である。他者の他者性と、ある種の不可能性といってしまってもいいかもしれない。『ヴァイブレータ』の主人公は性急な変化を望むがゆえに他者を欲する、つまり「ここではないどこか」を目指す運動のなかに自分を置くわけだが、この『逃亡くそたわけ』の「あたし」には、そういった運動自体が常に「ここ」であり続けているように感じられているみたいなのだ。だからこそ、「あたし」と「なごやん」の旅は、九州という円環(最後に付せられた地図を参照)をぐるりと一回りするようにして、進む。
 
 「あたし」が服用する薬の類は、具体的な名称でもって示されているけれど、そういったサブ・カルチャー的な知識が、ハッタリとして通じた90年代の小説とは違う、ナチュラルな質感がこの小説にはある。「あたし」たちは、病んでいることがエキセントリックではなく見えるくらい、ごく普通に病んでいる。それでも生きているし、たぶん生きなければならない。絶対に、というわけじゃないんだろうけれど。絲山の小説の特徴のひとつとして、ポップ・ミュージックの引用が挙げられる。今回はTheピーズである。カーステレオにあわせて「あたし」は、「日が暮れても彼女と歩いていた」を、「気が触れても彼女と歩いていた」っていう風に、ライヴのヴァージョンでうたった。

 「愛なんかいらねー」についての文章は→こちら
 『袋小路の男』についての文章は→こちら
 『海の仙人』についての文章は→こちら
 「アーリオ オーリオ」についての文章は→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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