ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年07月27日
 晴れのち曇りときどき読書

 『晴れのち曇りときどき読書』は、松浦寿輝が、この20年ほどのあいだに、おもに新聞紙上に発表した書評を、一冊にまとめたものなのだけれども、いや、これがとてもおもしろくはなかった。松浦は巻末に付せられた「書評の書き方――あとがきにかえて」のなかで〈良い書評が満たすべき条件は三つ〉、ひとつには〈それがどんな本なのかがわからなければならないということ〉で、もうひとつは〈それがそういう本だとして、ではそれにいったいどういう意味があるのかが評定されているということ〉、そして最後に〈それが読める文章でなければならないということ〉だといっているのだが、しかし〈そんな「良質の書評」なんぞ、実はわたしはあんまり書きたくないのである〉と、こういう言葉のうちに見え隠れしているのは、まちがいなく、ある種のスノビズムであろう。「良質の書評」を書けないのではなくて、書きたくないし、書かないという、さぞかしご立派な態度である。ふっ、鼻持ちならねえ、ね。とはいえ、松浦は、そうして自分の書いたものが〈単なる「良質の書評」という以上の何ものかになりえているのが理想だが、実際に言っているのとは違うことを行間に滲ませようとして、ぶざまな失敗を露呈させていることもあったかもしれない。世間様と折り合いをつけようという義務感の空転だけで終わってしまった文章も混ざっているかもしれない。わたしの偏見がぷんぷん臭いすぎてその本の本質を捉えそこねているようなケースも多かったかもしれない〉と、それがもしもアイロニーではなければ、殊勝な言葉を続けたりもするのだが、「かもしれない」といった語尾はもちろん、まあ基本的にそういったことはない、といった傲慢にしか読めない。いや、そうとしか捉えられないのは、こちらが単に頭の悪いせいなの「かもしれない」。それはともかく。さすが蓮實重彦門下というのが褒め言葉になるのかどうかはしれないけれども、さすが蓮實門下といったところで、批評や現代思想に関する書評は、ガイドとして相応に役立ちそうでもあるのだが、ひどいのは小説を扱っている項で、とくに内田春菊『あたしのこと憶えてる?』についての文章は、まあ、これが「実際に言っているのとは違うことを行間に滲ませようとして」成功している部類なんでしょうけれども、たとえば、そこで女性器の描写を引いたあとで〈いいなあ、こういうの。感性としてはむしろゲイ寄りのはずのわたしでも、こういう箇所を読むと何ともおいしそうでいいなあと感じ入ってしまう〉と書くあたり、内田春菊の作品を読める、理解できる、愉しめるボクちゃんてセンスあるよね、と坊ちゃんが媚びているような姿がイメージされ、なんとも白ける。寒々しいかぎりである。同じような詩人の書評集に、3000円ほどの金額を出すのであれば、荒川洋治の『文芸時評という感想』のほうが、何倍も得だし、すぐれていると思う。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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