ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年07月21日
 ZETMAN 7 (7)

 一方に正義は教えられるかといった問題があり、もう一方では他人から提示された正義に従うことは真実に正義なのかといった問題があるとして、その狭間で、人は、正義とはいったい何かを考えることができる存在なのではねえのかな、あるいは、それぐらいのことしかできない存在なんじゃないかしら、と僕などは思うのであった。桂正和『ZETMAN』7巻、自分の運命を受け入れたジンは〈まるで他人の為に生きてるみたい〉と言われれば、〈しかたねーだろ それがオレの生きてる理由なんだから〉と、切なげに笑う。ところで。ときおり自己犠牲は、偽善的だといわれる。そのような言説が、この国で、いつぐらいに成立したのか、または説得力を持つようになったのか、もうちょいいうと、一般化されたのか、詳細に検討したわけではないので、直感でいうが、じつはそれほど古くはないような気がする。そしてそれはたぶん、大きな物語と呼ばれるような公的なイデオロギーの失墜と、すくなからず連関している。なぜならば、ポストモダンより以前においては、なにかしらかの倫理のために死ねばよかったのか、そう問われれば、死ねばよかったのだ、と言えた。しかし、ポストモダン以降にあっては、なかなかそうは言えず、言えたら言えたで、まあそれもちょっとどうだろうというのもあって、死ねばよかったのだ、といった言葉が、共感を導き出す機会も稀となった。サブ・カルチャーの表現に引き寄せれば、90年代に、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジが人類のために戦えないのも、小林よしのりが個だとか公だとかいいかましたゴーマンも、それぞれ見え方や主張は違うが、議論としては有効であり、センセーションであったのは、死ねばよかったのだというのは、もうすこし正確を期せば、自分のために死ねばいい、生きればいいというのではなくて、他人のために死ねばよかったのだ、と口にするのが、すでに憚れていた時代の反映であり反動であったと考えられる。さて。『ZETMAN』に話を戻す。出生の秘密や、紆余曲折を経て、ジンが選んだのは、ある種の自己犠牲に他ならない。自己犠牲はたしかに偽善的でありうるかもしれない、が、しかしだからといって、それを偽善であると指摘すること自体が、すなわち真に善なる行為として保証されるわけではない。そうしたときに、いったい何が何をもって正当化されるのか。ひとつ可能性として挙げられるのは、エモーションであろう。先天的には人ではないはずのジンが、なぜ人間のサイドに立ち戦うのか、そして本質的には人でありうるのか、というのは、まちがいなく『ZETMAN』の物語を動かす主軸のうちの一本である。それに対する答えは、この巻の随所で端的に示されており、要するに、感情を、心を、やさしさを教えられたからということになる。もっともエモーションに裏打ちされた行動が、ただそれだけの理由で、善となるいわれもないのだけれど、たとえば打算的な論理とをハカリにかけてみれば、どちらに信頼が置けるのかは、火を見るよりも明らかであるように思える。そうして7巻でもっとも印象的かつ感動的なのは、死ぬことも許されず、愛する人たちからも遠ざけられ、苛酷な試練を告げられたジンが、次のように言う場面である。〈なぁZETになれば・・・大切な人を守れるか?〉。こうした決意を、現段階での『ZETMAN』という作品の内部に入ったところから否定するのが難しいのは、もしもほんとうにジンが〈ニンゲンがどーなろうと知ったこっちゃねーよ〉といったほうに傾き、〈プレイヤーなんか追わねーで好きに生きてやる〉としたならば、〈罪もない人々が無差別に殺される〉可能性へと繋がっていくからだ。問題は、彼の内的な葛藤に止まらない。が、しかし〈やっとこれで本当のオレになるんだろ?〉すべてを受け入れたジンが、いよいよ本格的なZETの覚醒に臨む段になり、ふたたびプレイヤーの到来と危機が予告され、8巻へと続く。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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