ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年07月19日
 オートフィクション

 ひさびさに自分の読みにまったく自信が持てなくなる小説であったよ、金原ひとみの『オートフィクション』は。というか、ちょっと、おもしろがれなかった。22歳の〈私〉が書くオートフィクション(自伝的創作)のなかで、18歳の夏に〈私〉は、〈シャアと出会い、大分変わってしまったようだ。シャアを愛せば愛するほど、適当さがなくなっていく。生活も男も、何もかもが面倒臭くなって、適当な放浪生活を始めたはずだった。それが、シャアと出会った瞬間から、私はまたせっぱ詰まった人間に逆戻りを始めてしまった〉と思う、その〈私〉は、16歳の夏にガトウという男と付き合っていたときに、〈私があんたにしてやれる事は、全てやってきたつもりだった。毎日ご飯も作ったし、炊事洗濯もした。ただ浮気だけした。それにも理由があった。あんたが私を大切にしないからだ。毎日毎日スロットばかりで相手にしてくれないし、いつも「飯」とか「風呂」とかクソ亭主みたいな事ばっか言うし、友達の彼女を可愛いと褒めるし、そんなの、浮気されて当然だってんだ。くそ〉と涙を流す以前の、15歳の冬には、父と母の不仲を眺めながら、〈私はこれからずっとにゃんこと一緒にいて、いずれは一体化する方針だ。でも、もう何十年も一緒にいる彼らが一体化していないのを見ると、望みが叶わない可能性を疑って〉しまい、そのにゃんこという男とのあいだにできた子どもを堕胎したさい、〈自分の子供を産むも堕ろすも決められなかった事を。ずっと自分が死ぬところを想像しながら、今この瞬間死んでいないという事実を〉受け止め、〈私はきっと、自分自身で自分自身を変化させていく事が出来るだろう〉と考えていたのであった、が、しかし、22歳の冬に担当編集者からオートフィクションを書くことを提案された〈私〉はといえば、〈シンの事が好きで好きで仕方ないのに、私は死にたくない。愛するという事は死ぬという事だ。生きていたら愛する事など出来ない。生きるべきか死ぬべきか愛するべきか愛を諦めるべきか〉といった妄念に囚われ、〈彼と出会い初めて人間として本物の愛を手に入れる事が出来たのだ〉と信じていた男に離婚を、すでに切り出している。と、引用でもって、おおまかなアウトラインを描いてみれば、そのような感じになると思うのだが、いかんせん、その奥に書かれているもののほうに、どうも僕は入り損なってしまったみたいなのである。とがった文章からは、他者との断絶を前提としながら、それでも他者との共存を願わずにはおれない、殺伐としてさびしげな雰囲気が醸しだされてはいるのだけれども、それにうまく乗れなかったというのもある。まあ、いまどきの饒舌小説としてみたら、それほどに高い水準ではないと思うのだが、しかし、じっくりと付き合ってみれば、何かしらかの発見があるのかもしれない、と引っ掛かるのは、登場人物たちの名前(愛称)の付けられ方の適当さ具合から、オートフィクション(自伝的創作)という言葉が示しているフィクションに対する、作者の用意周到な悪意を察することも可能だからで、だいいちシンとかシャアとかカズとか、リンとかランとかモエとかユウナとか、この匿名的かつヤンキーとオタクが紙一重となった頭の悪さは、それこそがこの時代のリアルなどといえばひどい退屈でしかなく、あきらかに作為的なものなのであろうから、いったい何を意図しているのか、考えているうちに頭がこんがらがった。

 『AMEBIC』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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