ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年07月09日
 『文學界』8月号掲載。目次には「創作」とあって、あれ? と思うが、じっさいに読んでみて、『悲望』が小谷野敦にとっての、はじめて発表された小説であることがわかった。個人的には、小説家になりたかったが才能がないためになれないことを悟った、という、いくつかの文章に書かれてある断念こそが、小谷野の批評性を支えているひとつの柱であると考えていたので、いささか複雑な気持ちでページを繰っていたのだけれども、いや、これがなかなかに読ませてくれる内容であった。おそらく若かりし頃の小谷野の、その実体験に基づくエピソードが、藤井というフィクショナルな人物に仮託され、記述される。大学院時代よりの片想いを捨てきれず、留学先のカナダにまで追いかけてきた篁響子から、藤井に一通の手紙が届く。そこに書かれていたのは、徹底的な拒絶の態度であった。1990年11月19日のことである。〈私は暗い道をどこまでも歩いたが、闇は深まるばかりで、どこにも出口は見いだせなかった〉。しかしどうしてこう、藤井の、篁へ向けられる感情は形成され、募り、話がこじれていったのか。そうした一連の顛末が、〈私〉という主語により、告白されてゆくといった寸法だ。恋愛における一神教的な側面など、小谷野の著書『男であることの困難』や『「男の恋」の文学史』の小説化といった趣もある。ヒロインにあてられた響子という名は、小谷野の好きなマンガ『めぞん一刻』からとられたものだろう。文体は、まあ、いつものとおりであるが、話しの運びはけっして悪くはないし、〈私の内心には、ああ、君に洗脳されるなら、私はナチスにだってなるよ、という奇怪な台詞が鳴り響いていた〉といった妄想の展開など、エモーショナルであるぶんだけ、じつにおかしい。思わず笑いこけたのは、藤井が響子に電話で告白をしようとする段で、〈もう、この会話はしっちゃかめっちゃかである〉というような、ふたりのちぐはぐなやり取りには、ある種のリアリティが持ちうる無様さと滑稽さとが、とてもよく捉まえられている。とはいえ、僕という読み手はすでに、こういった類のモテない男譚としては、浦賀和宏の『上手なミステリの書き方教えます』という孤高の一作に出会ってしまっているのであって、それに比べると、やはりすこし、芸の乏しさを感じてしまう。が、そこいらへんは、こちらの年齢(世代)による素養というのもあるのだとは思う。

・その他小谷野敦に関する文章
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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