ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年07月08日
 ナンバMG5 5 (5)

 前巻に引き続き、ハワイ編がメインのエピソードになっている、小沢としお『ナンバMG5』5巻であるが、いや、剛の兄ちゃん(猛)が最強過ぎて、こう、血が滾るのであった。〈男のクセに腕折られたぐれぇでピーピー泣くな! 牛乳飲んどきゃ治るべ!!〉。まあ、いつかは治るだろうけれどね、しかし無茶言ってらあ。とはいえ、そういうところが好きである。さて。ヤンキーといえば、もともとはアメリカ人を指す言葉だったとして、それに不良の意味合いでの日本人ヤンキーが立ち向かう、といったシチュエーションを読むたびに、ときどき、結局これはいったいどういうことなのだろうか、と考える。日本人の基本的な属性はヤンキーとファンシーだというようなことをいったのは、たしかナンシー関であるが、おおむね僕もそれに賛同であるとして、では、なぜヤンキーやファンシーの血が日本人からは抜けないのか、そのことを根本的に突き詰めていくと、おそらく、戦時下や高度経済成長期における連帯やがんばりが、この国の人々の本質であるといった体の見方にぶつかるのではないか、という気がする。ファンシーのことはおいておくとして、日本人のヤンキー化というのは、アメリカナイズの畸形であると同時に、近代以降のこの国の人々が、近代以前に回帰しないかたちで、日本人としてのアイデンティティを保持するための抵抗であったかもしれず、要するに、戦後日本が抱えたジレンマそのものを、はからずも原形に近しいかたちで体現してしまったものであろう。それこそ、江藤淳がいうようなサブ・カルチャーを、無意識のまま生きてしまったときに、日本人の多くはヤンキーとなるのではないか。たぶん、そうした部分を含め、日本人ヤンキーがアメリカ人と対峙するという図式にもっとも意識的であるのは、佐木飛朗斗だと思うが、それについてはべつの機会にゆずる。『ナンバMG5』の話である。ヤンキー一家である難波ファミリーの姿は、戦後日本のもっとも豊かであった時代、その理想的な家族の団らんを彷彿とさせる。そのことはこれまでにも、現代的な母子家庭に育った伍代との対比によって、明らかだ。その彼らが、ハワイでアメリカの悪漢と対峙する。勝敗を分けるのは、体格差やピストルやナイフなどの武力ではなくて、気合と根性である。つまり、かつての日本人にとっては美徳であるようなものが、勝率に加算されている。しかし、合理化と相対化の徹底的に押し進められた現代においては、気合と根性で勝つなんていったら、それはもうファンタジーにしか過ぎない。だが、そうした無茶を無茶と知りつつ、いや、だからケンカのギャラリーであるアメリカ人たちは剛や猛の強さに驚くわけだし、その勢いを特化し強め、とにかくエンターテイメントの本分としてきちっと機能させているところに、『ナンバMG5』のおもしろみはある。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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