ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年02月17日
 現実の向こう

 これには、04年に行われた3度の講演のうち、2本をまとめたものと、残りの1本を参照とした短文が、収められている。基本的に、現代における国際社会なり日本社会なりが抱える問題は同時代を生きる我々の自意識と相似である、という線でもって話は進められる。

 第1章において、ポイントとなるのは他者の存在、そこに含まれる「不確実性」について、である。どういうことか。どれだけ他者を理解しよう、あるいは理解したとしても、「不確実性」は絶対に消去できない。最終的には残ってしまう。たとえば、僕が君のことを深く愛して、四六時中生活を共にしたとしても、君が僕のことを同じように愛しているかどうか、というのを完璧に証明することは、僕の側からはできない。それはもちろん不安であると同時に脅威である。としたときに、じゃあ君がいなければ僕は苦しまなくて済むのだ、という風に考える。ああ、そうか、君が死ねばいい。でも、そうした「不確実性」を排除しようとする心の動きを、もしかしたら君も持っているかもしれない。君は心のなかで、ほんとうは僕に死んで欲しい、って思っているんだろう。というような具合に、他者の他者性そのものに耐えられない感受性こそが、それこそアメリカのイラク攻撃や、日本の北朝鮮忌避の根本にあるのではないか、と大澤は推測する。

 なるほど。「不確実性」とは、ある種のネガティヴィティである。では、これに対してどのような解決策を提出できるのか。大澤は「偶有性」を徹底させる必要があるという。「不確実性」も「偶有性」も、どちらも「必然性」を否定する言葉、じつは同じことをいっているのであるけれども、「偶有性」というのは、あくまでもポジティヴな意味合いを持っていることを主張し、その「偶有性」の引き受け方を説明する。その内容は、わりとアクロバティックであり、どれほどの説得力を持つかはわからないが、しかし世界の見え方としては、あかるい。か弱い光かもしれないけれど、トーチとして掲げるのに悪くはない気もしてくるのだった。

 さて。1945年から70年代までを「理想の時代」、そこから95年、オウム事件までを「虚構の時代」とする、大澤の著作『虚構の時代の果て』のおさらいとして、あるいは第2章は機能しているかもしれない。では、「虚構の時代」が終わったあと我々が生きているこの時代とは、どのようなものか。東浩紀ならば『動物化するポストモダン』のなかで「動物の時代」というわけだが、いや違う、大澤は「不可能性の時代」という呼び方こそが相応しいのではないか、という。

 「不可能性の時代」とは、理想から虚構へと反-現実的な要素が高まった、それよりもさらに反-現実的な世界を指している。反-現実というのは、シンプルにいえば、逃避先のことである。つまり、70年代までは理想こそが自意識の逃避先であった、95年までは虚構が逃避先としてあった、そして現代は、現実そのものを現実として体験しない、言い換えると、多重人格(解離性同一障害)のように、自分が体験したにもかかわらず、その記憶を失ってしまっている、または体験していないことを実感として持ち合わせてしまう状態、現実からの逃避が一回転した現実になってしまうような、そういう時代なのだということだ。ここらへんの議論は、「第三者の審級」というファクターの、それはおそらく加藤典洋が『敗戦後論』に書いたことにも絡んでいる、問題が大きく関与しているのだが、その点については、たぶん大澤の、次あるいはその次の著書によって、より詳しく述べられることとなるだろう感じがする。

 要するに。『現実の向こう』、00年代にそれはどこまで行っても現実でしかないところに行き着くことだった、と、そこまでの話がここでは語られているのである。

 『帝国的ナショナリズム 日本とアメリカの変容』についての文章は→こちら
 『性愛と資本主義 増補新版』についての文章は→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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