ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年06月23日
 karakuri o.jpg

 オデットは、天才的な科学者である吉沢に作られたアンドロイドである。見た目には完璧な人間でしかない彼女は、しかし、ふとした瞬間に考えるわけだ。「私と人間の違いは何だろう」と。かくして、社会勉強を兼ね、高校に通いはじめることになるのだけれど、もちろんのように、オデットがアンドロイドなのは他の生徒たちには秘密なのであった。作者の鈴木ジュリエッタは、この『カラクリオデット』が初のコミックスだということだが、いや、これ、おもしろいや。このまま連載が続いて、ある程度エピソードが溜まったら、アニメ化されるんじゃないかな。というのは、まあ、ちょっと期待値を高めすぎだ。とはいえ、シリアスな部分とユーモアの兼ね合いがとてもよろしく、また吉沢の過保護さ加減などを含め、オデットを取り巻く他の登場人物たちの立ち方も決まっており、物語の世界がいくらでも拡がっていきそうな雰囲気に、愛着が沸いた。すでに次巻以降が待ち遠しいほどである。

 以下、読みながら考えたこと、本題とはすこしズレるかもだが、とりとめもないままでメモしておく。

 これは末次由紀の『Silver』(例の騒動で絶版なのはもったいない)を読んだときも思ったのだが、今日、このような機械(ロボット、アンドロイド)と人間の交流ものというのは、唯物的な見方をすれば、つねに残酷な前提を孕んでいるように思う。ものすごく簡単にいってしまうと、本質的には違いのないものが、決定的に異なる存在である、という断絶を根本的に抱えているために、ある種の感動が、物語のなかに確約されている。まあ、そういう問題は手塚治虫のころからあった、といえば、そうかもしれないけれど、手塚の場合は、人種間の対立やレイシズムのアレゴリカルな表現化といった部分が大きかった。しかし、現在のサブ・カルチャーの想像力は、それとはすこし違ったものを、表現のうちに召還しているのではないか。もっと卑近な、それこそ他者の他者性というか。たとえば浦沢直樹の『PLUTO』を引き合いに出してみるとわかりやすいと思うが、あそこでのロボット犯罪者の描かれ方は、サイコな犯罪者の描かれ方とそれほど変わりはない。また一方で、これは映画になるが、スピルバーグの『A.I.』のような突き抜け方、あそこでの少年型ロボットは、病気の子どもの代替品(オルタナティヴ)として物語に登場するわけだが、そのような出発点は、手塚の『鉄腕アトム』における、アトムがもともとは、天馬博士の息子の代替品(オルタナティヴ)として制作されたのと相似であり、またその後に、しかし、やはり代替品(オルタナティヴ)にはなりえないといった切り捨てによって、ファミリー・ロマンスあるいは貴種流離譚ふうに物語が展開していくあたりも相通じるとして、でも『A.I.』の、唯物的なレベルにおいては、機械(ロボット、アンドロイド)と人とのあいだに、けっして和解の生じていない結末を眺めるにつけ、内包されている思想というか葛藤は、完全に異なっているのではないか、とさえ思う。このへんは、説明するのが難しい。が、たとえば90年代半ば以降、顕著になってきた人間存在を工学的に捉まえる視線の作用は、すくなからずあるように感じられる。要するに、先にいったことに戻るが、本質的には違いのないものが、決定的に異なる存在である、といったテーゼにかかってゆくものだ。そこを辿っていけば、大塚英志のいう「アトムの命題」的な問題、サブ・カルチャー的な身体の問題に突き当たるのかもしれないけれど、それはべつの機会に時間があれば、考えてもみたい。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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