
新田たつおの『静かなるドン』がすばらしいポテンシャルのマンガであることは疑う余地もないのだったが、しかし98巻の現在もなおトップ・クラスのストーリー・テリングを繰り広げていることを世間はあまり語らない。もったいないではないか。いっけんギャグにしか思われないパートがじつは重要な伏線だったという演出は、たとえ後付けであろうが、作中人物に都合が良すぎであろうが、たいへん見事なレベルで成立させられているのであって、今や国民的な作品である『ONE PIECE』にも比肩しうるものだと言いたい。
昼は下着会社のサラリーマン、夜は暴力団の三代目総長、以上の二極に引き裂かれながらも自己実現を果たそうとする青年の姿を(まあ多少真面目にいえばね)初期からのテーマにしているのは周知のとおりだけれど、中期以降は、ヒロインとの結ばれない恋愛を通じて、ロマンティックな悲劇性を全体化してきた印象が強い。近藤静也に惹かれ、ついにその正体を知ってしまった秋野明美は、しかし立場を越えてまで彼のそばに止まろうとすることが、結果としてお互いを苦しませ、滅ぼすとかえりみ、自分の想いを決して告げたりせず、秘めたまま、近藤を見守っていこうとする。そしてそれは秋野の幸せを願う近藤にしても同じであった。
近藤と秋野の、許されざる恋愛をベースに、事態を一転、二転、三転させてきたのが、中期以降の『静かなるドン』である。他方で、関西は鬼州組七代目組長、白藤龍馬と近藤のライヴァル関係がいくつものハイライトを作り出していく。無論、近藤が率いる新鮮組と鬼州組の抗争は、初期の頃より熾烈なものだったが、白藤龍馬のカリズマときたら、先代たちを遙かに凌ぎ、いよいよ終止符が近づいたことを予感させるほどに強力なものなのである。実際、近藤と白藤の衝突は日本中に緊張をもたらすばかりか、海外の勢力をも国内に呼び寄せることとなる。さてそして、新鮮組と鬼州組の連合に斥けられたはずのアメリカン・マフィア、アレキサンダーが、チャイニーズ・マフィアやロシア・マフィア、コロンビア・マフィアを従え、再び日本制圧に乗り込んでき、まるで大阪が戦場と化してしまうというのが、ここ数巻の粗筋であって、アレキサンダーの背後には世界皇帝と呼ばれる巨大な存在の控えていることが明かされる。いやもう、とにかく規模のやたらでかい物語になっているのだけれども、近藤と秋野のラヴ・ロマンスを中心に考えるのであれば、作品の本質はほとんどぶれていない。
この98巻では、大阪で繰り広げられる市街戦をよそに、東京で下着会社プリティの社長となった秋野がデザイナーとしての近藤を花開かせようとする展開がもたらされる。はたして秋野が近藤を高く買うのは私情にすぎないのかどうか。ここでの二人のやりとりは、いくぶんコミカルであるが、大人のせつなさをも漂わせる。それにしても、である。出世した近藤の渡英が、あるいは白藤とアレキサンダーの対決が、新鮮組の傘下にいる生倉の馬鹿馬鹿しい暗躍が、それら点と点とが、まさか一つに結び付くだなんて。〈この時、静也は現地で本物の英国諜報部員と大立ち廻りを演じるとは想像もしていなかった〉どころか、そんなの読み手だってまったく想像しちゃいねえよ。ほんとう驚くべきストーリー・テリングであろう。
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