ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年06月14日
 『新潮』7月号掲載。距離、というのはけっして平面上の間隔だけを言うんではないんだろうな、と思う、読後に。それで、長さと幅だけでは測ることのできない距離というものがあるのならば、いったいそれをどのように感じながら我々は生きているのであろうか、と柴崎友香の『その街の今は』は、その実感にあたる部分を、なんとか言葉の内側に捉まえようとしているような、そういう感じのする小説だった。たとえば、これまでの柴崎の作品を、題名だけで考えるのであれば、『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』や『青空感傷ツアー』、『ショートカット』、もしかすると『いつか、僕らの途中で』までを含めてもいいのかもしれないが、それらのなかにはすでに、平面における距離を想起させる言葉が含まれており、じっさいに登場人物が旅行に出たりするなど、そういった線で結ぶことのできる移動が行われている。『フルタイムライフ』はともかく、『きょうのできごと』にもその傾向は見受けられるとして、しかし、それらについては、やはり題名から察せられるとおり、時間軸に置かれている比重が大きい。そのような平面の移動のないことに対して、何も起らないだとか、日常的だとかいうふうに読む向きもあるかもしれない。けれども、そうではなくて、もっと抽象的に、漠然としたイメージのなかで、とはいえ形而上ではないほどに身近に感じられる距離があり、その間隔のどこかでつねに登場人物たちは動く、動かされている。そのことが、より鮮明なかたちで、『その街の今は』という題名の、「その」と「今は」のあいだに示されているのではないか。語り手である〈わたし〉は、自分が住んでいる大阪の、現在ではなくて、それよりも昔の写真を眺めるのが好きで、それはなぜかと尋ねられれば、「そらそうやけど。なんていうか、自分が今歩いているここを、昔も歩いていた人がおるってことを実感したいねん。どんな人が、ここの道を歩いていたんか、知りたいって言うたらええんかな? 自分がいるとこと、写真の中のそこがつながってるって言うか……。だんだんなに言うてるんかわからんようになってきたけど」と、うまく答えることができない。でも彼女は、自分で自分がどうして、それを好んでいるのか、じつはちゃんと、次のようにわかっている。〈言葉を選んでいるつもりなのに、写真を見た瞬間のあの実感を説明するのには全然足りなかった。最初に空中写真で焼け野原の心斎橋を覗き込んだときの、あの感じ。なんとかして、あの感じやそれ以上の感覚をもたらすものに出会えないかと思って、わたしは写真や映像を見ている。自分の知っている場所のほうが、その感じが強くあるっていうだけのことなんだけれど。どの道をどこに行けばどんな景色があるかすぐに思い浮かぶくらい、わたしはここを知っている〉。こうした文中に含まれている、「あの」や「それ」、「その」や「どの」「どこ」そして「ここ」といった指示語の曖昧さ、より強調していえば、語り手以外の人間、つまり他の登場人物たちや読み手から見た場合にとっての不正確さこそが、『その街の今は』という小説もしくは作者が問題としている距離にかかっている、と考えていい。

 『フルタイムライフ』についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
あああ〜、柴崎友香だ〜。
僕、柴崎友香さん好きなんですよね…。
昨日「新潮」買ってまだ読んでいません。
ってことで↑の書評もまだ読みません…。
Posted by 誠 at 2006年06月14日 22:21
誠さん、どもです。
これ、すげえよかったですよ。個人的には、柴崎友香のなかでベストかも、とか思いました。
Posted by もりた at 2006年06月15日 16:16
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック