ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年06月12日
 少女は踊る暗い腹の中踊る

 80年代アメリカの、アーバンでハイソサイエティな暮らしは、パトリック・ベイトマン(ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』)という無感動な殺人者をつくり上げた。その影響は、00年代の日本の、退屈で閉塞的など田舎のなかで、ウサガワという、エモーショナルなシリアル・キラーへと伝播する。いや、それはちょっと、おまえ、じっさいにウサガワ当人が「何に影響受けたっかっつったら、間違いなく『アメリカン・サイコ』じゃけ」と言っていたところで説得力を欠くだろ、としても、どちらの非人間的な凶行も、けっして完璧にフィクショナルな想像力の産物ではない、むしろ時代の反映として、当然の成り行きのように現れたものだ、といえなくもない。

 『少女は踊る暗い腹の中踊る』は、第34回メフィスト賞受賞者である岡崎隼人のデビュー作である。85年生まれという若さゆえか、先行する舞城王太郎か、あるいは佐藤友哉あたりのフォロワーとして割り切ってしまえるし、技術的に未熟なところもあるが、この数年のあいだに、純文学系の新人賞からデビューした同世代の作家群と比べれば、ここに書かれている内容は、十分評価に値すべきものである。

 物語は、父親から譲り受けたコインランドリーの管理人をしている19歳の〈俺〉イコール北原結平の、饒舌さがそのまま余裕のない行動力となって示される語りによって、進行してゆく。岡山で起きた連続乳児誘拐事件、そしてウサガワと名乗る男が軽トラックで運ぶ女と生首、それらの惨劇に否応なく巻き込まれた結平は、蒼以という少女と出会い、やがて自らの抱えるトラウマと対決せざるをえなくなる、というのが『少女は踊る暗い腹の中踊る』という作品の、大まかなつくりだ。ここで重要なのは、そうして小説内に登場するほとんどの人物が、一般的な倫理の枠外で生きていることである。結平は、語りのレベルにおいて推理を遂行する探偵の役を兼ねているけれど、しかし、その彼自身からして、けっして暴力を振うことに躊躇いを持っているわけではない。〈とにかくおかしなやつが多いのだ〉と納得済みで、先を尖らせた長く長いプラスドライバーを携帯している。

 そのような諸々なことの結果として、膨大な数の死者が、小説のなかで要請され、用意される。先ほどもいったが、語り手を含め登場人物たちはみな、一般的な倫理の枠外にいるため、殺害を重ねることに抵抗や嫌悪を感じることはない、というのが、その一因であろう。より正確にいうならば、原体験ともいえる、いちばん最初の惨劇だけは、それぞれバイアスのかかった特別なものとされ、一段階上に持ち上げられているのだけれど、それ以外の惨劇は、あくまでもその下位に属するものである以上、あたかも無価値であるかのように切り捨てられる、要するに、意味のないゼロの死がいくつ積まれたところで、それはゼロ以上の価値を得ることはないのである。これが『少女は踊る暗い腹の中踊る』の殺伐としたテイストの背景となっている。

 しかし、そこに横たわる問題は、けっしてアパシーに終始していない。いや、むしろ逆に、登場人物たちの多くは、きわめて感情的な行動原理に従っているように思える。つまり、小説の比重は、頻出する無価値な死に対してではなくて、それらをゼロに貶めてしまうほどに高められた、それぞれの登場人物にとって、唯一無二の固有性を孕む死のほうへとかかっている。そして、その場合の死とは、自分以外の人間のことでありながら、いかんともし難く自分自身へと反映されてしまう、そうだからこそ一個の他者たりうるものの喪失を指しているのだった。登場人物たちの、非人間的な凶行は、しかし彼らが、その他者を意識しているかぎりにおいて、彼らの人間性をキープするものとして機能する。まるで詭弁のようだが、ならば簡潔に、こう言っても、良い。大切なものを守るため、それ以外のものを犠牲にすることは、ときに正当化される。

 ふたたび繰り返すが、登場人物たちが立っているのは、一般的な倫理からは完全に逸脱した場所である。にもかかわらず彼らは、物語の最後までいっても、そのような立場から、いっさい裁かれることはない。おそらくは、その点を瑕疵だとする向きもあるだろう。だが僕は、べつの見方を採用したい。彼らはたしかに、社会的な通念からすれば、大幅に間違えている。たとえばウサガワが、その別れ際、結平に向かって「また間違えようね」と言うように、自覚的に。しかし、それでも彼らが、人間的に、無事でいられるのは、小説の内部において、べつの倫理体系に保護されているからなのではないか。

 それはどのようなものかというと、自分の生命の範疇に他者の生命を迎え入れたとき、その一対一における関係性の保持のみを目指し、必要とされる類の倫理である。そのことはもしかすると、今日においては「きみとぼく」というテーゼに連なっていくのかもしれないが、ともあれ地獄巡りの果てでようやく、結平は、損なわれた過去を上書きしてくれる、換言すれば、唯一固有的であった死のオルタナティヴとなる、生きた他者を獲得し、〈他には何もいらないのだ〉と思う。そうした言い切りに、ぐだぐだとして薄暗い不平不満とは異なる、自意識の声が生まれているのを聞いた。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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