ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年03月19日
 PSYREN-サイレン- 16 (ジャンプコミックス)

 不安が常にあるのと同じように希望も常にあるよ。とっちらかった世界を綱渡りで進むしかないのであれば、幾通りにもひらかれているはずの未来がより良い行き先を教えてくれると信じるよりほかないんだ。めげながらでも踏ん張れる。ときにフィクションは、祈りをもたらし、勇気である。

 岩代俊明の『PSYREN -サイレン-』が16巻で完結した。おそらく、このアイディアには先行例がありそう、と容易に指摘できるほど現代的なスタイルの作品に独創性を見出せはしないだろう。細部の設定はもとより、バトル・ロイヤル式のサヴァイヴァルを予感させた序盤、オルタナティヴの可能をめぐる時間改変ものへとスライドしていった終盤など、大筋に関しても、じつに今時だいね、の類型に止まっているのだった。が、しかし、物語の全容を通じて確かに伝わってくるメッセージには励まされ、少年マンガとして高く買えるだけの根拠が備わっていたように思う。

 とくに主人公である夜科アゲハの、正義感、自己犠牲も厭わぬ熱血漢であるようなところが、幾分ややこしい展開においては明確なテーマになりえていた。実際、『PSYREN -サイレン-』とは、アゲハの活躍に他の作中人物たちが感化され、悪を挫いていく過程だったといえるのであって、その、目先の流行色をふんだんに盛り込んだ成り立ちに相反し、古めかしくもとれるストーリーの構成にこそ、まったく少年マンガらしいポジティヴな価値を求められる。

 一方でこれは、ペアにまつわる物語だったとも解釈される。決して一人では生きていけまいよ。敵対であれ、恋愛であれ、友情であれ、家族であれ、尊敬であれ、各人が誰かと何かしらのペアを為すことで、世界に組み込まれ、世界そのものを変えていく。少なくともそのような営みを連係させることによって、ドラマは駆動、旋回し、エモーショナルな場面を描き出していたのだし、孤独を愛するあまり、ペアを組めなかった者が、結果的に世界からはじかれていったのも、作品の基礎がどこに置かれているのかを示していた。

 その基礎は、作中人物たちの年齢にかかわらず、あまねく『PSYREN -サイレン-』の物語を支えていたといってよい。最高に好きなのは、15巻で祭と影虎の大人が、長い月日をかけて、ようやくお互いをペアと認め合うシーンである。いやはや、それまで頑なであった祭の要請に一つ返事で〈これでやっとアンタと一緒になれる・地獄でもなんでも死ぬまで付き合うって前から言ってんだろ……心開くの遅いんだよ・バカめ〉と応じてみせる影虎さん、かっこいい、であろう。事実、二人の再登場が局面に与える影響はでかい。あたかも、ペアを組んだ者がいかに強くなれるか、を象徴しているみたいでさえある。

 無論、アゲハと雨宮の、つまりは主人公とヒロインの関係に、ペアの精神が代表されているのは述べるまでもない。そうだ。このマンガは、雨宮のSOSを受けたアゲハが、彼女を守るべく、手を差し伸べ、自ら危険に身を投じる姿を、まずは始点にしていた。そしてその繋がりが、新たな繋がり、次の繋がり、さらなる繋がりに通じていき、やがてはイメージの大きな繋がりを生んだ。アゲハの行動と理念が間違いでなかったことは、正しく最終回である「繋がる世界」の感動に集約されている。

 結局のところ、アゲハが命を懸け、立ち向かった悪の正体は、ウロボロスという名前に由来のとおり、自分で自分の尾を噛む、誰とも繋がれないことの孤独が、暴力に転じたさまなのだと思う。災厄と破壊を目論んだ天戯弥勒の、16巻でいわれている〈だが この世界は仏の顔をして屑が蠢く…特異なる者への偏見に満ちた世界だ〉こうした主張自体は、必ずしも理不尽なものではない。しかし、アゲハの奮闘が、弥勒と弥勒の姉とを再び結びつけ、すなわち彼らがペアであった頃の記憶を取り戻させることで、事態に救いの現れた点を看過してはならない。

 本質を理解してもなお立場を異にするアゲハに弥勒は〈……生きろ・生きてこの世界を見届けろ・夜科アゲハ〉と告げた。これは、死なないでいるかぎり、いくらでもこの世界と他の誰かに働きかけられる、というサインだろう。不安をシェアすることができるのであれば、希望もまたシェアすることができる。未来を信じられる。つらさ、悲しみに行く先を隠されてしまうときもあるが、忘れない。無力じゃない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
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