ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年02月10日
 ネコソギラジカル (上) 十三階段

 損なわれたものは回復しうる、あるいは、壊れたものは修復しうるとしても、しかし、カタチのあるものはどうしても傷つくことから逃れられないのであれば、それは、またしても損なわれることがあるのだろうし、やがて壊れることもあるのだろう。そののちで同じように再生したりすることだってある。おそらくは、その繰り返しこそが物語と呼ばれる。ならば、そういった煩わしさを持たない完璧に幸福な人間には物語は存在しない。だから、ある人たちは自分が悲劇の主人公であることを望み、そのように振舞う。なぜならば、物語とはイコール世界なのだとした場合、幸福な人間はすべて死者と同じだからだ。言い換えれば、世界や物語の外側にいるものだけが幸福でありうる。世界や物語の内側に存在するものはみんな不幸になりうる。もしも、あなたが永遠に続くような幸福を望むのならば、誰の心のなかにも生き残らないようにして消え去らなければならない、と僕は思う。

 西尾維新を象徴する「戯言シリーズ」も、いよいよクライマックスである。最終章三部作の、まずはさいしょの物語が、ここに展開している。世界と物語を終わらせようとする狐面の男と戯言使いである「ぼく」との最終決戦が、いま幕開こうとしている。その中途で、これまでのシリーズで張られた伏線が、じょじょに回収されてゆく部分は、なかなか爽快であるけれども、それ以外の本筋、狐面の男と対峙するまでの過程は、まるでドラクエ3におけるラーミア復活のオーブ探しと同じような単調さがあって、ややダレてしまい、ひとつの読み物としては一長一短といった感じである。ただ、終盤はかなりハッタリが利いているので、続きがものすごく気になる、そのように仕上がっているのは、さすがだ。たぶん、ネットを回れば、いろんな人がいろんな意見(疑問)を提出していると思うんだけれども、僕がいちばん気になるのは、登場人物たちの会話のなかで「使用人」の存在が徹底的にシカトされているところなのだが、もちろんミスリードの可能性が大なのであった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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