ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年06月04日
 ライトノベル「超」入門    ソフトバンク新書

 『ライトノベル「超」入門』という題名に嘘偽りはまったくない、と、いま現在ライトノベルに関しては親和性のあまり持たない僕のような読み手が言うのだから、間違いがないだろう。自らがライトノベルの作者でもある新城カズマが、一般的に門外漢からはチャラいと見なされがちな、その世界の奥行きと拡がりを、ひじょうにわかりやすく解説したガイドブックである。けっしてマニアックな知識に偏っていないので、読みながら、意味不明瞭に陥るところがなかった。

 とはいえ、僕はさっき、ライトノベルに親しみがないといったが、しかし、それはちょっと嘘で、かつては熱心に読んでいた時期もあった。大昔のことだ。いつぐらいかというと、この新書のなかで、ちょうどライトノベル元年といわれている90年の頃まで、である。つまり、ふたたび新書の内容に沿っていえば、『スレイヤーズ!』以前の、ライトノベルとして明文化される以前のライトノベルに関しては、ほとんど読んでいる。ちなみに『ドラゴンマガジン』は創刊号からしばらく買っていたのだが、そのあとで、角川まわりというか『コミックコンプ』などの、イラストレーター寄りの作家が描くマンガのほうに流れていってしまい、ライトノベルそのものへの興味を失っていくのであった。新城は、ここで、「字マンガ」という蔑称が80年代頃にはあり、それはそれでライトノベルにおける本質の片鱗を的確に捉まえていた、といっているが、まあ、だから要するに、あくまでも僕の場合は、マンガの代替物としてライトノベルに触れていた、ということだ。以上、自分語り、おしまい。

 しかし重要なのは、今日では、ライトノベルの存在は、けっしてマンガの代替物に止まるものではない、といった点であろう。マンガはもちろん、アニメやゲームと並び、サブ(オタク)・カルチャーを支える、おおきな柱として機能している。そのことを踏まえたうえで、新城は、あらかたの説明を終えた、最終章にあたる「ライトノベルはどこにいくのか?」のなかで、「ゼロジャンル」といった造語を提出する。

 「青春小説」もしくは「私小説」に近づいた、「これまでのジャンル・フィクションのアイテムとか設定とか、あまり気にしない、ふつーに“良い話”“じーんとくる話”」の増えてきた傾向を指して、「ゼロジャンル小説」というのはどうだろうか、と新城はいうわけである。

 「ゼロジャンル」という呼び名はともかく、この見通しは、純文学系の雑誌に、ライトノベル作家の多く登用される近頃においては、ひどく有り触れたものであると同時に、だからこそ正鵠を射たものだといえる。そうした指向性は、今後おそらく、より一般化されてゆくだろう、と考えられる。ただし僕は、そのなかで、はたして倫理がどのように動いていくのかが、気になっている。それというのは、ライトノベルを扱う批評家の多くというか、いい大人が、どうしてか、その作中に働く倫理のこととなると、無視するか、とたんに口野暮ったくなってしまうのを見て、ああ、こりゃひどいな、と思わされる機会がしばしばあるからなのだった。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(06年)
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