ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年02月09日
 050209

 『新潮』3月号掲載の長編。伊井直行のものはどれも良いが、これもかなりのもんだった。どれも良いって、お前、そりゃあファンの贔屓目だろう、と言われてしまうかもしれないが、それは逆で、どれも良いから僕はファンなのである。

 「僕」は五十歳で、二十年間連れ添った妻と、十七歳の長女、そして〇歳、まだ生まれたばかりの次女を、家族として抱えている。基本的には、その五十代である「僕」の〈〇歳の子供を持つに至った顛末〉となる一年間を追った、そういう小説である。そこに、若くして死んだ「僕」の叔父のエピソードと、70年代から80年代、80年代から90年代、90年代から00年代という移り変わりのなかで、いかに「僕」が日本社会の変容に適応していったか(または適応しなかったか)という回想が絡んでくる。

 いろいろなファクターが細かく切り刻まれ、トッピングされているけれども、核心で語られているのは、たとえば舞城王太郎が『みんな元気。』などで書いたことと近しい、要するに、ある時期まで日本を支えたシステムやルールが、いま生きていく上での寄る辺にならないとき、では、我々は何を胸に置いて生きていけばいいのだろう、と、そのような問題を、非凡なるものとして身近から除外するのではなくて、日常という枠のなかへと回帰させることである。

 この小説は冒頭で、五十歳にもなって「僕」と称しながら物語を進めることに対しての自己弁護を置いている。それは、おそらくヤングアダルト的な「僕」語りによって発生するナイーヴさの自覚である。ここらへんは、伊井と同世代である金原瑞人が『大人になれないまま成熟するために』のなかでいっているようなことと関連してくるかもしれない。そのように考えるのであれば、つまり、戦後以降の日本人男性における、新しい責任の引き受け方が模索されている、という風にも見える。

 とはいえ、そういった小難しいことは抜きにしても、これは、とてもとても良いお話であると思う。人の愚かさがあり、孤独があり、悲しみにならない悲しみがあり、そして、なにより頑なさとやさしさと、それらが結ぶ心地よい読後感があるのだった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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