ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年06月01日
 キーチ 9 (9)

 本宮ひろしのマンガに『新・男樹』というのがある。おそらくは本宮の代表作のひとつに挙げられる『男樹』の続編になるのだけれども、個人的には、『新・男樹』のほうこそを推したい。その理由は、作中の登場人物がいうように、たいていの場合、イケイケ型のカリスマが、力押しで行き着くのは破滅なのであり、それに関わった他の登場人物をけっして幸せにしない、そこのところで、『新・男樹』の主人公である京太郎は、前作『男樹』からの流れをも含め、物語の結末を見事にハッピー・エンドに持っていくという、ある種の離れ業をやってのけているからなのだった(とはいえ、それは、次の続編にあたる『男樹四代目』で反故にされてしまうが、置いておく)。イケイケ型のカリスマとハッピー・エンドとの結びつきが、おおよそ困難なのは、村上龍が小説『愛と幻想のファシズム』で書いたように、当初はシステムに抗っていた勢力は、やがて強大になると、システムそのものと化すか、さらにメタ的な場所から捉まえたシステムのうちに呑み込まれるかしかないからで、要するに、権力への対抗としてのみ、民衆をドライヴさせうるカリスマ性は、それ自体が権力として機能しはじめれば、当然、その役割を果たさなくなる、というわけだ。まあ、そういう類のことは、とっくの昔にニーチェなどが言っている。

 新井英樹でいうと、たとえば『THE WORLD IS MINE』では、当初の時点で、命には等しく価値がない、という宣誓がなされ、権力装置の無効化が図られたが、しかし結果だけを取り出せば、物語の終焉が世界の終わりと同義であるというかたちが取られ、やはりハッピー・エンドとはなっていない。もちろん、ハッピー・エンドが絶対的に正しいわけではないとして、同様に、破滅タイプな物語のなかにも必ずや何かしらかの問題が含まれているのである。それを忘れてはいけない。

 さて、この『キーチ!!』もまた、イケイケ型の主人公が、そのカリスマ性をもって、大勢を魅了してゆく体のマンガだといえる。作者が周到なのは、ここで、いわゆる若者と呼ばれうる世代の、物語への関与が、それほど重要ではないふうに、描いている点であろう。基本的には、子どもと、壮年期以降の、つまり大人という二項の対立が、明確な、カウンター形式の構図をつくり出している。青年期の、要するに、子どもでも大人でもない登場人物を、おそらくは意図して片隅に追いやることで、読み手の安心できる、システムとアンチ・システムの定型を導き出しているのである。キーチは言うだろう。〈お前の理屈は正しくても醜い〉。こうした言葉が、あくまでも純粋さの仮託された人間によって発せられたとき、それは、とてもとてもうつくしい高揚を呼び起こす、として、その役割はやはり無垢な少年が負うべきものであったろう、そして、それがここまで『キーチ!!』の物語を引っ張ってきたドライヴ感の本質に他ならない。すくなくとも僕は、そこに魅了されてきたのだった。が、しかし、そのような少年時代を捉まえた「子供編」は、この巻にて終わる。ここからの続き、主人公がいかにして成長してゆくのか、カリスマ性をキープしたまま突っ走ったすえの、ハッピー・エンドは果たしてあるのかが、ほんとうは重要なのだけれども、(カバーのところではなくて)単行本内巻末の出版案内を見ると、「全9巻」になっちゃってるなあ、じっさいに連載は中断してしまっているし、もしかするとこれで終わりなのかしら、そりゃあ激しく問題ありですよ、と思わず溜め息をついた。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
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