ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年02月10日
 ああ。そりゃこんなのもうぼろぼろ泣くよりほかねえんだ。現実を見れば、叶わない願いや通じない祈りのほうが多くなりがちに世のなかはできているみたいだった。それでも信じられるものはあったろう。信じ続けられることが必ずしも幸福であるとはかぎらないにしたって、決して不幸だと思えなかったろう。だから手放したくなかった。しっかり握りしめておきたかった。その確かさだけが、幾重もの哀しみにおいて、一輪の救いになりえた。勿論、それは奇跡を待つという体勢を意味しているのではない。たとえ奇跡がやって来てくれなくとも生きていけるという光明をただただ指している。斉木久美子の『花宵道中』は、この5巻で完結を迎えた。以前にも述べたとおり、宮木あや子の原作小説にたいへん忠実なコミカライズであったと思う。前近代における社会の底辺と近しい位置に遊郭を描き、ほとんど不可避な悲劇性に照準を合わせながら、懸命に手探り、足掻き、もがくことでしか果たされない美しさを女郎たちの有終に当てはめており、時系列をばらばらに複数のエピソードをまたいでいるが、結論からいうと、その大半が実存のレベルでのハッピー・エンドとは縁遠い物語となっている。過酷な環境下、もしも彼女らに救いがあっととすれば、それはあくまでも観念のレベルに存在しているのであって、空想、夢や幻の匂い立つほどに甘やかな印象が、各話の幕引きに残される。いや、少なくともマンガ版に関してはそうなのだ。先行する女性作家群からのインスピレーションを隠すことない斉木の筆致は、逃れられない困難に耐え、忍ぼうとする作中人物たちの表情を、眼差しを、息づかいを、せつなく輝かせた。そしてその奥底に、孤独を前にしようが空しさに支配されないまでの強さをひっそりと置いた。これが作品の構えをとてもエモーショナルにしているのである。作品全体のエピローグを思わせる第五部「雪紐観音」で、ようやく年季明けに達せられたヒロインがあらわれる。しかしそれ以前のエピソードでは、どのヒロインも吉原という運命の檻の外へ、生きたままでは出て行けない。結局のところ、生涯のどこかにありえたかもしれない光景をささやかな希望と呼ぶにとどまる。第四部「十六夜時雨」のヒロイン、八津の〈ここは江戸吉原――… 男に惚れるということ――それは死へ向かうこと あたしは生きる そのために… 誰にも惚れやしない けっして 誰にも〉という決意が胸に痛いのは、本当に欲するものを求めてはいけないと自ら禁じる姿に、逞しさではない。大きく開いた寂しさを覗かせているからだ。いくら制度に縛られ、きつく口を塞がれていようが、ほんの一呼吸ぐらいは息をつける場所があったっていい。それすら断念したら誰も光を得られまいよ。かすかな明かりさえ届くまい。『花宵道中』に展開されているラヴ・ロマンスとは、要するに、そのような不幸に対する反語であろう。何もかも苦しみに潰えていくのみか。そんなはずはない。八津はやがて〈姉女郎の朝霧姐さんは男のために死を選んだ〉のとも〈再会した実の姉は男のために生きるとおはぐろどぶを越えていった〉のとも違った結末を得る。すべての願いが叶い、祈りが通じ、まったくの幸福を選び取れたわけではない。だが信じられるものを信じ続けられると知ったことでおそらくは救われた。それまでと変わらぬ日々を真新しく生きていけた。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
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