ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年02月05日
 ラス・マンチャス通信

 第16回『日本ファンタジーノベル大賞』大賞受賞作。良い。帯によると、カフカやマルケスが引き合いに出されているが、個人的には、安部公房あたりの世界を思った。不条理であることが、なぜかリアリティをもって感じられ、集中すればするほどに、気もそぞろになる。どこか他人事ではないのだ。もしかしたら西尾維新が『タマシイの住むコドモ』などでやりたかったのは、ほんとうは、こういうのかもしれない、と考えたりもした。

 「僕」の家には「アレ」と呼ばれる、不快で、正体不明の同居者がいる。父も母もいないある日、敬愛する姉の体の上にのしかかる「アレ」の我儘さに、いよいよ耐えられなくなった「僕」は、ついに罪を犯してしまう。そのことをひとつのきっかけとして、帰る場所を失い、あてどなく行く先々で、奇妙な経験を強いられることとなるのだった。

 強いられる、というのが、やはり正しいよな、と思う。自分の意思で行ったことが、最終的には、他人の手の平で踊らされているという思いに囚われている。あるいは、自分が正しいと思った行為が、どのようにしても失敗、そして大失敗に帰結してしまうことを、予め先取りしてしまう。家族や社会など、場によって生じる権力の構造や因果律を過視してしまうがゆえに、気力さえも奪われていく。そういった閉塞感や虚無感、倦怠感に苛まれた「僕」には、安楽な夢を見ることすらも許さていない。すべての現実は悪夢のようであり、すべての悪夢が現実のようである。解放はどこかにあるのだろうか。たぶん、どこかにある。すくなくとも、そう信じることはできる。だから、この小説の最後に見られる夢が、あまりにもスウィートに感じられるのだ。

 醒めた、どちらかといえばクールな文体であるけれども、ところどころにある生々しい感触が、憂いを帯びた表情を喚起する。会話のほとんどは「かぎカッコ」で括られていない、そのことは、おそらく「僕」と他者との境界の曖昧さを表している、にもかかわらず、他者から成る世界とは疎遠になってしまった「僕」の存在が、きっちりと見えてくるとき、こちら読み手は、いつの間にか物語に感情移入している自分に、気づくのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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