ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年05月21日
 題名『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』のうちにある「分りやすさ」そして「アイロニカル」の2語が、この新書の内容を端的に示していると思う。仲正昌樹が、ここで行っていることは、哲学的な歴史を遡行することで、アイロニーの本質的な意味を解説し、それによって現代社会における、限定された思考パターンであるような、二項対立の構図が導き出すわかりやすさ、その功罪を射抜くことである。「分りやすさ」という部分に着目すれば、それは、ここ最近の著作のなかで、仲正が繰り返し述べていることだともいえる。なので、本書で比重を置いてみるべきは、アイロニーとは何か、といったことであろう。仲正は、アイロニーとは、たんに皮肉の意で使われるべきではないとして、P206で次のようにいっている。〈くどいようであるが、アイロニーは、「私の対象」に対する「私」のまなざしにズレを生じさせることで、「私」自身の存在を捉え直すことに主眼を置く営みである〉。つまり、それは、自分はすべてをわかっているという態度をとらない、自らが仮想した状況を固定したうえで自らをドライヴさせるわけではないので、社会的なレベルにおいては即効性を持たない。だが、今日において、アイロニーとして捉まえられるものは、それとは問題の位相が異なるものに他ならない。それは〈「反省的な思考によって当該の言説の主体自身が必ずしも自覚していない“秘密の意図”を明らかにし、さらなる創造の可能性を開く」ための哲学的な戦略としてのアイロニー的な批評〉ではなくて、〈社会的なコミュニケーションの支配的なモードの中に現れてくるアイロニー的な表現形態〉に過ぎないのである。もちろんのように、ここで、前者の有り様を正、後者の有り様を悪としてしまえば、それさえも、わかりやすい二項対立の関係式に陥ってしまう。仲正の、ある意味でくど過ぎるほどにくどいロジックの立て方は、そうした鳥瞰図をいちいち破り捨てていく、徒手空拳の営みに近しいが、しかし、あたうかぎりの実直さをもって逼迫に堪えようとする意識の表れなのではないか、という気が僕にはした。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)』について→こちら
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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