
まあたしかに僕も、村上春樹の『海辺のカフカ』は偏りのある小説だと思うし、けっしておもしろいとは思わないのだけれども、かといって、ここでの小森陽一の批判もずいぶんと偏っているように感じられ、これはこれで、深く説得されない、いぶかしく感じられるところがないわけでもなかった。とはいえ、あの小説をここまで読み込むのはかなり労であったろうな、とは感心する。小森が、この『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』で述べていることの、大枠をいえば、つまり『海辺のカフカ』のベースにあるのは、男性側の女性嫌悪(ミソジニー)であり、それが無媒介的に権力と結びついてゆく過程を追った物語は、9・11以降の、アメリカのイラク攻撃や、それを支援する日本政府の在り方も含め、現代的な暴力の振われ方とパラレルであるがゆえに、今日における思考停止または判断停止に寄り添い、そのことを正当化させる、安心させる、すなわち読み手にとっては、あたかも癒しであるかのように機能する、ということだろう。そうした指摘は、『海辺のカフカ』のなかに参照された、『オイディプス王』や『千夜一夜物語』、『流刑地にて』、『坑夫』、『虞美人草』なとといった先行するテクストの側から、逆に、翻るようにして『海辺のカフカ』という後発のテクストを眺めたときに発見されている。ものすごく簡単にいってしまうと、夏目漱石が書いた小説のうちにはあった歴史の生成が、『海辺のカフカ』では結果だけが取り出され、その過程は抹殺されている、そのために本末の転倒が起こっているのではないか、といった具合である。たしかに小森の言い分には、一理、ある。が、しかし、それが一理を越えて、それ以上のものになっていかないところに、今日を生きる我々の、難点を見るべきだと思う。ともすると、ここで小森が国家を語るさいの前提は、たとえば柄谷行人が最近『世界共和国へ』で説いた国家のロジックとは、おそらく異なる。真っ向から対峙しているといってもいいかもしれない。が、いや、だからといって、どちらが正しいのかというわけではなく、そのような種々の問題が一元化されないことにこそ、本質的な問題があるのだとすれば、そりゃあ断片ばかりが目に立つ『海辺のカフカ』のような小説は、この時代の、「ぼく(わたし)っていったいなに」系の意識の揺らぎを大事にするタイプの読み手には、構造上の必然として、まあうまくあたるに違いない、のである。