ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年05月10日
 『新潮』6月号掲載。僕という読み手が飽きやすいというのもあるのかもしれないが、饒舌な語り手が延々と喋り倒すというスタイルの小説は、なんとなく、もういいよ、って感じもあるし、ましてや、その語り手がやけにヒステリックであったり、鬱病のケがあったり、嘔吐癖などを持っていたりすれば、ああ、まあね、となってしまう。ここで、この『生きてるだけで、愛。』で、本谷有希子が採用しているのも、そういう、たとえば最近では、やはり演劇界出身の松尾スズキの小説『クワイエットルームにようこそ』で見かけられた、いまどき類型的な語り手であるような〈あたし〉であり、これまでの作品『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『ぜつぼう』に比べると、文章それ自体を、過剰な自意識によって進行させているふうに感じられるため、前半は、かなり怠かった。それでもいいかな、と思えてくるのは、〈あたし〉の同棲相手というか、無職の彼女が半パラサイトしている男性以外の人物が、わらわらと登場してくるあたりからで、それというのは、言うなれば、小説内において、語りによりつくり出された、ある種の密室状況的な息苦しさから、ようやく読み手が解放されるからであろう。しかし、語り手当人にしてみると、そのような、一見ひらけた関係性こそが、じつは怠いのに違いない。とある事情を経て、〈あたし〉は、元ヤンキー夫婦が経営するイタリアンレストランで、働くことになる。決心したのは、インターネット上の掲示板の、閉塞性または排他性の、その空気にあてられたためだ。画面のなかの人びとは、たしかに〈あたし〉の話題をしているのだけれども、そこには〈あたし〉の意志や存在は、介在していない。そうした〈あたし〉の内面を占めるものの不在、作中の言葉を用いれば〈いつものあの無感触の世界〉は、さいしょは雰囲気よく思えたイタリアンレストランの人びととの関わり合いのなかでも、再確認される。そこにあるのは、おそらく主体と他者とのあいだにある、深い断絶だろう。人と人は、けっして完璧に理解しあえるはずはないのだという、まあ当然といえば当然だとしても、だが寂しく、絶望的な真実に他ならない。けれども、だからこそ、終盤で〈あたし〉は、同棲相手である奈津木を前にして、次のように思えたりもする。〈本当は奈津木にあたしのことを何から何まで全部全部全部全部理解してもらえたら最高に幸せだったのにと思うけど、あたしが自分のことを何も分らないんだから、それは無理な話だ。あたし達が一生ずっとつながっていることなんかできっこない。せいぜい五千分の一秒〉。ここで重要なのは、〈あたし〉という語り手が、最終的には、〈せいぜい五千分の一秒〉程度の、わずかさであろうとも、〈あたし達〉という繋がりを肯定していることである。そのハイライトで、雪が降っている、という舞台を用いたのは、すこしメロドラマし過ぎな気がしないでもないが、いくどとなく繰り返されたブレーカーのエピソードが、最後になって生きることもあって、けっして興ざめするほどのものではなかった。これはこれで、とても素敵なハッピー・エンドのひとつだな、と素直に思う。

 小説冒頭部分→こちら

 「被害者の国」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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