ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年05月08日
 絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男

 作家笙野頼子によって書かれた作家八百木千木の、新しい生き残り戦が、はじまる。八百木千木イコール〈私〉は、この国の上層部が有する「批判」や「アート」や「哲学」の権力により、清潔な部屋に閉じ込められ、今まさに、ブスとして小説を書き、そのなかで生きることさえも剥奪されようとしていた。つまり〈私〉ではないものになることを強要されている。見事に洗脳されたのち、12歳の美少女、美ガ原キレ子に取って食われ、そのパーツとなり、併合されるのだ。八百木千木が〈私〉として、それに抗うためには、〈私〉が他の何者でもない、八百木千木でしかないことを書き続けなければならない。しかし八百木千木というのは、もちろんのように、笙野頼子の手により書かれたものなのであって、笙野頼子の作家生命の危機や、それに対する不安が、そのまま百木千木の書く小説へと作用し、反映されるとき、では〈私〉とはいったい誰に所属するものなのであろうか。『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』は、おおきく、4つのパートに分かれている。『文藝』誌に掲載された「絶叫師タコグルメ」と「百人の「普通」の男」、そして書き下ろしである「センカメの獄を越えて」と「八百木千木様へ笙野頼子より」である。このうち「八百木千木様へ笙野頼子より」の終盤で、笙野頼子は次のように八百木千木への手紙に寄せている。〈近代小説は今後もその一部を変奏され本歌取りされまた異化され、愛され求められ続いていくでしょう。私はその近代小説を相対化する事で、特に近代中の異端私小説の流れを一筋受ける事で先に進もうとしている作家です。それはまた夢日記や語りものの中に活路を見出したりする努力と同時進行でやっていける事です〉〈そして究極私の中でまことの他者に会いたい。まあ、まことのなどと言ったってそんなのフォイエルバッハの悪く言う、人間の本質的感情としての「神」でしかないけれども、だからこそ文学の世界に転生させるしかないようなその「神」というものに出会いたいのだ。そしてそれを正気のままレポートしたい〉。もしも、この言葉を額面どおりに受けとるのであれば、ここに書かれている〈私〉とは、要するに、そうした取り組みの最中に生じた、ある種のノイズまたはリズムまたは、それこそ文学だということになるだろう。この小説の書かれた背景は、作品中でほぼ説明されているが、そうした部分を熟知していなくとも、最後まで飽きさせることのないところに、文体の、それはたぶん作者の意志とスキルが転化されたものの、強度が現れている。個人的に、あはは、となってしまったのは某文芸誌の「創作合評」で笙野の作品に不理解を示した文壇内部の人たちに向かい、〈女性文学と九十年代を見ない事にしてこそ仕事のある三猿〉と言い放つあたりで、なかでも、こう言われてしまうと、今日活躍する女性作家を多く輩出した90年代J文学期に、ヤングで多感な学生時代を過ごしたはずのニュー評論家田中和生は、ほんとうに立つ瀬がなくなってしまうなあ、と同情しつつ、笑い転げた。まあ、しょうがないよ、団塊ジュニアの層は、受験勉強とか、その他いろいろな競争とかで大変だったんだから、リアルタイムの文化になんて構っている暇はなかったんじゃないかな。

 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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