ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年05月07日
 『文學界』6月号掲載。「第102回 文學界新人賞受賞作」である木村紅美『風化する女』は、一言でいえば、しっかりと書けている小説だと思う。〈れい子さんは、一人ぼっちで死んでいった〉。正社員として事務で働く、結婚退職を間近に控えた〈私〉という20代女性の語り手の、やはり同じ会社に勤めていた〈これから仲良くなっていけそうな可能性はあった〉40代の独身女性であり、つい先日に唐突に亡くなった「れい子さん」という存在を捉まえる視線が、内容そのものを展開させてゆく。とはいえ、適度に親密な対象が喪われたさいに感じうる空漠が、作品の主題ではないのだろう。ここで〈私〉を動かし、物語を動かしてゆくのは、たしかに「れい子さん」の不在ではあるのだけれども、序盤では〈では彼女の死を悲しむ人は、いったいどこにいるのだろう、と考えた。悲しむ人がいるとして、その人に、彼女の死はきちんと伝わっているだろうか〉と、彼女の死それ自体にではなくて、その、彼女にはその死を悲しんでくれる人はいないのかもしれない、ということのほうに〈私〉の気分が重たくなるように、「れい子さん」の死は、あくまでも主体の外側に置かれているものである。それが、終盤になり、ようやく〈その肉体は消滅し、だれの持っている思い出さえ、早くも風化しつつあるかもしれないけれど、いつか私が死ぬときまで、れい子さんはきっと、私の中に住みついて離れない〉という場所にまで、つまり「れい子さん」の死そのものが、〈私〉の内側に入り込んだところにまで辿り着く。言い換えるとすると、とある他者の喪われたことが、主体のうちにエモーションとなり、特化されるまでの過程が、じっくりと丁寧に、描かれているのだ。小説内の時間は、故人の知られざる一面を、業務的な事項から、〈私〉が知っていくなかで進行する。そこからは、過渡にドラマティックであったり、またはスキャンダラスなストーリーは生じない、むしろ何もかもが、ありふれていて、惨めであるとさえいえる。しかし、そのような凡庸さから目を背けないことによって、逆に、新鮮ともとれるような情景がひろがりかける、そういうふうにまとめられた着地点が、ひじょうに頼もしかった。

 ところで「第四十九 群像新人賞」当選作である朝比奈あすか『憂鬱なハスビーン』にも、やはり「れい子さん」という年輩の女性が、わりと重要な役割として登場しているのだけれども、こういう偶然的な一致を指して、シンクロニシティとかいったりするのかしら。まあ双方ともに、76年生まれの女性であるから、想像力の源泉あるいは持ちうるデータベースに、共通項があるということの結果にしか過ぎないのかもしれない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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