ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年05月04日
 夕子ちゃんの近道

 たいへんおもしろかった。個人的な好みを含めていえば、長嶋有の書いたもののなかでベストではないか、と思うほどに、たのしんで読んだ。非常に魅力的な作品である。『夕子ちゃんの近道』は、『新潮』誌に掲載された連作短編六編に、一編の書き下ろしを加え、単行本化されたものだが、フラココ屋というアンティーク専門店の2階に住む〈僕〉を語り手に置き、その周囲の人々との関わりを描いた、ひとつの物語として捉まえることができる。それほど長くはない時間が、この作者独特の、まるく、やさしい、ゆったりとしたテンポで流れてゆく。

 過渡にドラマチックな出来事が起こるわけではないが、なにも起こらないというわけではない、そういう、こちら読み手の生きる日常に似せた空間が、ちょうど冬から春へと移り変わっていく季節のあいまぐらいのかたちに、切りとられており、軽くもなく重たくもなくといった程度のエモーションが、ユーモアのセンスをまじえながら、親しみやすく展開されている。たとえば〈僕〉が、ふいに大家の孫娘である夕子から(当人にとっては)深刻な話を打ち明けられる場面、〈夕子ちゃんの口調にはさらに切実な響きが混じっている。ここは大事だぞ。この会話のハイライトだぞ、と気を引き締める。引き締めるが、何をいえばいいのか分らなくなる〉、こういった語り口のあたりに、この小説の醍醐味を見てとれる。

 〈僕〉はといえば、この作者が扱うことの多い、けっして若いとはいえないにもかかわらず、それでも所在のなさを持て余した人物で、たとえば本人も〈モラトリアムの不安と気楽さとが、がらんとした銭湯で服を脱ぐ瞬間に最も強くこみあげる〉と思ったりもしている。しかし、その所在のなさ、〈モラトリアムの不安と気楽さ〉は、最後の最後まで〈僕〉の名前が明かされることのないように、きわめて匿名的なひろがりを持っていて、それが、共感または感情移入の働きとなっている。と同時に、そうした書かれ方は、物語総体のクライマックスにおいて、〈僕〉という存在自体の重心に、つよく作用し、読後の印象に対して、ひじょうに効果的な成果をあげている。

 ときおり人生とは旅(のようなもの)だといわれる。トーマス・マンは『魔の山』の冒頭で、旅について次のように書いている。〈時は忘却の水だといわれるが、旅の空気もそうした一種の飲物であり、時の流れほど徹底的ではないにしても、それだけにいっそう効きめは速い〉。『夕子ちゃんの近道』で、〈僕〉の心境にもたらされる変化は、おそらく、それとは真逆の現象である。ある種の親密さが、ゆっくり、記憶となって、主体に付着してゆく、そのことの過程だといえる。だからこそ終盤に至ったところでようやく、すでに教えられていたことではあるけれども、しかし体験としては未知であったはずのものに、〈僕は初めて知ったのに、そのことを前から分っていた気がした〉というふうな、愛着と実感が込められるのであった。

・その他長嶋有関連の文章
 小説『泣かない女はいない』について→こちら
 エッセイ『いろんな気持ちが本当の気持ち』について→こちら
 
 ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書(06年)
この記事へのコメント
長嶋有さんは僕が好きな作家さんの
1人です。
「文藝」に掲載されていた作品を何作かと、
先日文庫本の「タイノイのエジンバラ」を
詠みました。
新刊が出たんですね〜。
今度是非購入します!!
Posted by 誠 at 2006年05月06日 04:46
誠さん、どうもです。
「夕子ちゃんの近道」はひじょうにおすすめな感じです。物語のはじめにおける主人公の造型は、わりと「タンノイのエジンバラ」に近いかなとも思いますが、話が進むにつれて、それが微妙に変化(成長?)してゆくところに、惹かれました。
Posted by もりた at 2006年05月06日 12:07
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