ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年05月01日
 帯に高橋源一郎が推薦文を寄せているので、買ったはいいが、じつはなかなか手をつけられずに、しばらくのあいだ置いてあったのだけれども、『ポップ・カルチャー年鑑2006』のなかでも、えらく褒められており、どちらかといえば、それがきっかけとなり、ようやく読みはじめたのであった。とはいえ、読み進めるのは、けっこう難儀だった。それというのは、たぶん単純に、僕のなかのタイム感と、文体におけるタイム感との相性のせいだと思う。そのあたりは、たとえば保坂和志のものが快く読める向きには、むしろマッチしているのではないだろうか。川崎徹の書き下ろし短編小説集『彼女は長い間猫に話しかけた』である。ここには、ぜんぶで、4つの作品が収められている。それらの小説は、どれも具体的な物語をベースにしたものではなくて、抽象的なイメージの連鎖反応というか、語り手の意識の流れを追うようにして、こつこつと進んでゆく。そのなかでも、とくに触れておきたいのは、やはり表題作にあたる「彼女は長い間猫に話しかけた」だろう。臨終間際の父親が横たわる病室で、語り手であるところの〈わたし〉は、自分が子供だった頃の記憶を覚醒させてゆく。それは同時に、オニババァと呼ばれ、近所から忌避されていた、ある老女と死にまつわる報告でもあった。この作品のつくりをみたときに、重点なのは、父親についてを述べる〈わたし〉と、オニババァについてを述べる〈わたし〉は、小説の構造内部においては、異なる位相にありながらも、語り手の水準においては、同一的であるということだ。死へ向かう父親の姿を捉まえる視点は、目の前の現状を認識する働きである。一方で、死に接近したオニババァを捉まえる視点は、過去の情報を再構成する働きである。それらは、しかし〈わたし〉のなかに、二股に分かれた道筋を設けるのではなくて、逆に〈わたし〉という自意識の整合をまとめ上げてゆく。〈わたし〉に見られているかぎり、その見られているものは、あくまでも客体の役割を負う。けれども、主体が行うある種の行為のうちでのみ、その見られていたものが顕在化するとき、それは、完璧な客体としてはありえない。そのような現象の起こり方は、父親に関しても〈しかしこうした物理的名残よりも、父を介して母は生き続けていた〉〈父の一部としてではない。母は父の中に入り込んで生きていたような気がする〉という記述が示すとおり、パラレルで当てはまっている。意識の混濁した父親を見つめながら、〈わたし〉は〈地球上には「ここ」と「ここ以外」の二種類の場所があり、「過去」「現在」「未来」の三種類の時間が存在することも、父にとってはもはや重要ではなかった〉と思う。裏を返せば、〈わたし〉にとっては〈地球上には「ここ」と「ここ以外」の二種類の場所があり、「過去」「現在」「未来」の三種類の時間が存在すること〉こそが重要になっている。それはなぜか、つまり、こういうことではないか。それらすべてを見つめる視点の総体として、〈わたし〉という生者が成立しているからなのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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