ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月30日
 “かっこいい”とはどういうことか。「“かっこいい”とは、こういう事だ」。吉田聡『荒くれKNIGHT 高校爆走編』は、終幕に向け、『月刊荒くれナイトマガジン』の発刊も含めて、輪蛇のメンバー各人、または輪蛇というチーム自体の、決算が行われつつあるわけだけれども、この9巻で、『荒くれKNIGHT』本編より主要登場人物のひとりでもあった、野呂に関するエピソードはフィニッシュ、という感じかな。前巻に引き続き、野呂と来原、ふたりの対照的な生き方に、ひとつの結着がつけられている。〈燃えるってなんだよ・・・〉、ついに来原が見つけた答えを、善波七五十は、野呂に告げただろ。〈ノロよぉ・・・来原はよォ・・・‥燃えるモンが見つかんなかったけど……〉〈最後に“ひとりぼっち”の自分を燃やしたんだ〉〈だからオレらはアイツの“灯り”でアイツが そこにいるってわかったんだぜ!〉。来原のハートをサイドカーに乗せ、野呂のバイクは闇を抜ける。かくして輪蛇への復帰を許された来原だったが、しかし彼は、それよりも大切なことを、後輩に託すのであった。〈どうでもいい事は流行に従う〉〈大切な事はルールに従う!〉〈燃えるべき事は自分に従う、オレは・・・‥ここで静かに燃えているだけで充分さ……!!〉。ここだ。ここで、涙腺の弱い僕などは、うわーんってなってしまう。ああ、“かっこいい”とはどういうことか、つまり、そういうことであったな。

 さて。野呂と来原の友情もそうだったが、この巻のラストにおける青蛇と赤蛇のエピソードから、たぶん次巻以降に収められることになる『月刊荒くれナイトマガジン』掲載分の、最終章「黒い残響」で、吉田が描こうとしているのは、登場人物たちひとりひとりにおける、ある種のオルタナティヴな可能性ではないか、と思う。たとえば、孤独を、当人では決定不可能な宿痾としては捉まえず、対照的な、信頼できる仲間に囲まれたべつの登場人物とのコントラストによって、そうでありえたかもしれない、といった選択権のひとつとして定義し直すことが、延々と描かれているように見える。孤独な自分の運命は、自分にしか変えられないとして、そのために燃やせるものが、まだ残されているのだとすれば、遅くはない。あの、まばゆく届く光も、きっと、同じようにして灯っているのなら、そうか、諦めないかぎりは、自分にできないはずもないんだった。

 第8巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック