ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月27日
 詩学叙説

 最初にことわっておくと、僕はそれほど頭のいい人間ではないので、吉本隆明にとっての大きな仕事のうちのひとつである『言語にとって美とはなにか』、いわゆる『言語美』に関しては、正確に理解しているとは言い難く、むしろ『詩人・評論家・作家のための言語論』のわかりやすい物言いで大枠を把握してしまったところがあるので、この『詩学叙説』でいわれていることも、その内容にどこまでついていけているか、自分ではすこし訝しいところがある。

 ちなみに、吉本の言語論または言語表現論について、いま現在、大枠のみを知りたいのであれば、『SIGHT』誌VOL.26(06年冬号)の、渋谷陽一による吉本へのインタビュー「吉本隆明 自作を語る 第六回『言語にとって美とはなにか』」が、ひじょうに有用ではないかと思う。

 さて『詩学叙説』である。ここに収められたもののうちでとくに重要なのは、やはり表題に置かれている、『文学界』01年2月号に掲載された「詩学叙説」であろう。吉本自身が「あとがき」のなかで述べているように、『言語美』で展開された理論は、小説などの散文作品には適用できるが、しかし、それは詩のような表現形態のものには適応しないのではないか、と思い直し、〈詩の言葉の表現様式の面から近代以後現在までの様式を、個々の詩人たちの個性的な特性よりも言語の様式の変遷の面から検討すること〉が目指されている。

 たとえば『詩学叙説』以前の、吉本の考えでいえば、すべての文学表現は「韻律」「撰択」「転換」「喩」を観察することで、その作品に評価をくだせる、批評することができる、論じられる。なかでも、作者がなぜその文章において、その言葉を「撰択」したか、そして、そのあとでなぜ、そのように場面を「転換」させたのか、文章を「転換」させたのか、を正確にみていけば、作者の意識、あるいは無意識、あるいは意識と無意識の兼ね合いにまでつっこんだところで、その作品の良し悪しを見極めることが可能になるというわけである。

 だが、しかし、近代詩以降の詩において、とくに「転換」は、極端にまで徹底化され、自国語と異民族語とを、等価交換可能にするほど、極限にまで突き進められる。要するに、詩作上における、言語表現の技術は、自然な言葉の流れとは相反するところへと向かってゆく。そうなると、小説などの散文作品のうちにある「転換」と、詩のうちにある「転換」は、その役割を、おおきく違えることとなる。

 もうすこし、くわしく述べたい。たとえば吉本は、小説などで「朝5時に起きた」と書かれることと「朝早くに起きた」と書かれることは、言われていることの意味合いは同じだとしても、作者の意識または無意識が行う「撰択」としては、決定的に異なる。また、そのあとに「外はまだ暗かった」でも「鶏の鳴くのが聞こえた」でも、はたまた「隣で人が死んでいた」でもいいのだが、そのように言葉を続け「転換」させてゆくことのなかに、その作品の芸術性が宿る、といっている。

 だが、近代詩では、そうはいかない。〈近代詩にとって詩を詩たらしめるための最後の言語技術は、詩の〈意味〉にできるかぎり変更を加えないで散文に比較して〈価値〉を増殖させて、散文からの分離と飛躍を実現させることであった。詩は散文とは異なるものだというための、言語上の試みとしては、それが最終の課題だった〉のであり、〈それならば日本語の詩とは何であるのか? また散文と異なる所縁はどこで求められればいいのか? 現在でも確かな相違点を指摘できそうもない〉が、〈言語の〈意味〉よりも〈価値〉に重点を置いて描写されているものを「詩」と呼び、〈価値〉よりも〈意味〉伝達に重点が過剰に置かれた描写を散文と呼ぶというほかないとおもえる。これは日本語の不可避の運命だった〉からだ。

 では、ここでいうところの「意味」そして「価値」とは、いったい何だろう。じつは、それらこそが、「詩学叙説」における、キー・タームとなっている。〈〈一は一だ〉という数学的な表現を、〈意味〉だけで出来上がった表現だとすれば〈一はまるで一軒家だ〉とか〈一本杉〉だとかいう表現は〈価値〉だけでできた表現の極限だといえる〉と吉本は示している。要するに、とある文章において、ある言葉をべつの言葉に置き換えたとしても、変更されない文意のほう=〈一は一だ〉を「意味」とし、その置き換えの多様性のほう=〈一はまるで一本杉だ〉〈一軒家だ〉を「価値」として捉まえるわけである。

 もちろん、そのように考えれば、「価値」というものは、先の「韻律」「撰択」「転換」「喩」でいうと、「喩」の部位、楡法につよくかかっていることになる。つまり、小説などの散文では、言葉の連続は「転換」によってもたらされるとすれば、近代詩以後の詩では、言葉の連続を担うのは「喩」の増殖に他ならない。また、そういうふうにして「喩」が「価値」をともない、拡大してゆけば、本来の「意味」を覆う、隠蔽することがありうる。しかし、そうすることによって出現する〈幻想の言葉だけで構成された言語空間〉や〈科学的な言葉を使えばバーチャルな空間〉こそが、じつは、近代詩以後の詩の特色なのである、というのが「詩学叙説」における吉本の主張の、とりあえず大旨ではないだろうか。

 ※この項、これ以上は長くなりすぎるので、べつの機会に書き改めます。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 読書(06年)
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