
ちくしょう。悲劇ばっかりじゃねえか。宮木あや子の同名小説を、斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』だが、あたかも近世の底辺であるかのように描かれた遊郭では、その華やかさとは裏腹にまったくの不幸せが綴られる。小説のほうを確認すれば明らかなとおり、構成と内容は、原作を忠実になぞらえているといっていい。もちろん、それに絵が付くことでイメージにはっきりとした輪郭が備わっているのは、マンガ版ならではの利点だろう。連作の形式で繰り広げられる物語は、この4巻で、今までに含められてきた因果関係の全貌を教える。これがもう、最高に哀しい。霧里の苦労が、半次郎の想いが、朝霧の恋が、互いに平行線であった世界が密に繋がり、ああ、という大きな溜め息をもたらすのだった。『花宵道中』に示されている不幸せとは、おそらく、あらかじめ定められた運命を決して変えられない、このことに集約されると思う。どれだけ藻掻こうが、いくら抗おうが、地滑りし続ける人生は下へ下へ向かうのを止めない。夢は夢のまま、潰えるよりほかない。しかしながら、すべては苦しみにすぎないのか。確かに作中人物たちはその生涯を閉じる間際にしか安息を得られない。だがそこで見られる光景は、いつだったか各自の胸を満たした幸福の、鮮やかなリフレインでもあったろう。たとえ少しでも、たった一つでも、記憶をやさしく撫でるものがあったとすれば、それはもしかしたら懸命に生きたことの証になるのかもしれない。はたして、霧里や朝霧の妹分、八津もまた、彼女らと同じく悲劇を辿ろうとしている。どうか、髪結の職人である三弥吉との出会いが八津にとっての救いであって欲しい。そう祈らずにはいられない痛みを湛え、新展開の第四部が幕を開けた。
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2巻について→こちら
1巻について→こちら
・その他斉木久美子に関する文章
『ワールズ・エンド』について→こちら