ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年11月07日
 ヤクザ・マンガにとって北海道とは何か。このような問いは一考に値するのだったが、なるたけ深い検討がなされなければならないと思われる以上、とりあえずは提起だけにとどめたい。まあ、新宿が舞台であればVS中国や韓国の、沖縄が舞台であればVSアメリカの、北海道が舞台であればVSソビエトの、といった具合に、ある種の喩えを含んでいるのは間違いない。そこでは戦後という残響のなか、対外と接しなければならない極道の真髄が、ひいては日本人としてのアイデンティティが試されているのである。たとえば、史村翔と池上遼一の『サンクチュアリ』や本宮ひろ志の『男樹・四代目』を代表例に挙げられるだろう。しかし、立原あゆみの『本気!』の主人公が北海道出身であったり、和久井健の『新宿スワン』(厳密にはヤクザ・マンガではないがやっていることはヤクザと一緒)の主人公が北海道に渡らなければならかったりしたのは、必ずしもその限りではないと思われるし、また高橋のぼるの『土竜の唄』ではどうだったか。ほかにも参照すべき作品は多い。

 無論、東元俊也の『破道の門』もその一つに数えられる。部分的にではなく、全面的に北海道を舞台にしているのは案外珍しい。他方、ロシアン・マフィアが麻薬の象徴であるような点は、こうした系統のパターンであろう。そしてやはり、ここでのヤクザは外国からの勢力に対して国防あるいは自警の役割を果たしている。もっとも物語上の要点は、この10巻で完結した段階から振り返るに、もっとべつのところに求められるかもしれない。ロシアン・マフィアに両親を殺された若者、藤沢ケンジの復讐劇でもあったわけだが、それはつまり、天涯孤独となってしまった彼が新しい家族を得ていく過程でもあったのである。8巻以降、クライマックスに向かい、そのテーマは急激に加速する。ヤク中になりかけたケンジを救うべく兄貴分の虎島は、自分たちが家族であることを強調する。文字どおり、オヤジである組長が死ぬ。ケンジの実の父親が明かされる。そして九条英治というカリスマは、ケンジを庇いながら、こう言うのだった。〈おまえの父親が誰だろうと関係ねぇ‥‥おまえは俺の弟だ〉

 ともすると『破道の門』における擬装破門とは疑似家族の言い換えにあたる。組織というよりは共同なのである。しかもそれは自分で自分の運命を選び直した結果、属するものとなっている。すなわちア・プリオリにはありえないのだ。必然、仁義や民族ですら無関係といえるだろう。ハイライト、父殺しの試練を経、寄る辺を獲得するケンジとは反対に、宿敵イワノフはすべてから切り離されて、死ぬ。そこには新しい価値観が興り、旧い価値観が没するといった構図が生じている。ロシアン・マフィアであるイワノフの生涯は、戦後という残響のなか、ソビエト史とともにあったのだったが、ケンジの背景にもはや日本史は存在しない。それをラスト・カットに掲げられた〈極道でもマフィアでもない新しい道――――俺たちは“破道”を進む〉このような宣言は象徴している。

 いちおうは第1部完の名目でストーリーは閉じているけれども、はたして第2部が描かれるかどうかは正直わからない。もしもあるとすれば、共同とは別個のテーマが設定されなければなるまい。

 1巻について→こちら
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