ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年04月19日
 ぼくのメジャースプーン

 以前にも引いたが、三田格は「24アワーズ・パンティ泥棒」(『ユリイカ』05年12月号掲載)という文章のなかで、マンガ『デスノート』に関して、そのエンターテイメントの中核を成しているのは、「間接的な暴力」を用いた「去勢」の隠蔽、つまり、主体や読み手が、他者に対してダメージを与えることに対して心的な負荷を覚えない、そのための「回路」の抽出なのであり、それが、大勢に支持されることの背景には「ネット上の暴力」を達成させるような、そういう文化があるのではないか、といった感じの旨を述べている。辻村深月が、ここで、『ぼくのメジャースプーン』で取り扱っているのも、同様に「間接的な暴力」を成立させる「回路」だといえなくもないし、またそれを、時代の反映として見てとることも可能であるが、しかし、小説の主題は、いかにしてそのような「回路」それ自体に、心的な負荷を付与するか、といった部分にかかっている。話の筋を、大まかに取り出せば、不思議な能力を持った小学生の少年が、ある事件によってダメージを負わされた幼馴染みの少女のため、その犯人に、自分の能力を使った復讐を試みる、というものである。小説内の時間は、とある人物との対話を通じ、少年が、自分の能力を左右する基本的な法則を学んでいく、その過程によって動いてゆく。と同時に、そうした過程がそのまま、ダメージを与える側と与えられる側、要するに、加害者と被害者間とを、主体と他者として結ぶ、心的負荷についての、考察となっている。そういう意味で、読み手であるところの僕は、これ、志の高さみたいなものは、ものすごく買うのであるけれども、物語のほうはといえば、それほど深く潜ったものではない、表層的にすぎるので、総体的にみると、ひじょうにもったいない気がした。いや、正直にいうと、読後にすこし涙ぐんでしまったのだが、それというのは、結局のところ、落着の仕方の綺麗さによるものでしかないのであって、けっして、小説という器のうつくしさからやってくる余韻ではない。先ほどもいった小説の基本的な進行となる、とある人物と少年との対話が、いかんせん退屈であるし、そこでの議論が、うまい具合に、物語のうちへと、『ぼくのメジャースプーン』という題名の示す寓話へと落とし込まれていない感じがするのだ。法則的に重要なダブル・バインドといった項目や、〈誰か人が死んだ時に人間が泣くのは、その人を失った自分のことがかわいそうだから〉という節理に関して、たとえば僕たちの文化(サブ・カルチャー)はすでに、ジュニア向けの表現として、かずはじめのマンガ『MIND ASSASSIN』という、すぐれた解答を、90年代の半ばに持っている。そのあとで『デスノート』のような作品を受け入れる文化が発達したのだとして、そうした事実を踏まえたときに、『ぼくのメジャースプーン』はやはり、観念の面においても、強度の面においても、それらを越えてはいないように思えた。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(06年)
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